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牛の話
宮崎県は口蹄疫で大変な思いをしている。牛は利口な動物、その話を潮文社の「心に残るとっておきの話第八集」から紹介。
 乳離れしたばかりの子牛で、生後半年近いものだったと思います。
 おはぎをつくり、自分の手の上で食べさせたり、小さな桶に水を少し入れると、ペチヤペチヤとなめるように飲んだりする可愛い子牛でした。
 私が村はずれの田圃へ行くときは、牛にリヤカーを引かせました。夕方になって、私が、
 「まる、暗くなってくるに帰るかな」とか、
 「疲れたで、まる、家へ行くかな」と、牛を繋いである場所へ行って言うと、頭をすりつけてうれしそうでした。
 ある日、田仕事に使った道具や刈り取ったあぜ草などをリヤカーに積んでから、
 「さあ、まる、行くだわや」
 と言っても、じっと止まったまま歩こうとしません。何度うながしても歩きださないの
です。
 「どうしたや、まる、家へ帰るだわ」と言うと、今度は私のエプロンを口でぐわえて引くので、これは乗れということだと思って、リヤカーに乗りますと、私が乗り込んだのをよく見てから、ポクポクと歩きだすのでした。
 畦道を通り過ぎて、町中の道に入り、牛は道の端を行くのですが、あるところでピクッと止まって動かなくなり、乗っている私をかばうように幾度も後を振り向くので、どうしたのかと思っていると、男の人が二、三人、向こうから近づいてきて通り過ぎていきました。彼らが遠ざかると、またポクポク歩き出すのでした。
 時には、牛が止まると、そのうちに車がきたりしたことも幾度かありました。人も車も見える前から、牛は気配でわかっていたのです。
 また私が山へ連れて行って、重い木を引かせた時など、重くてせつなかったものか、牛は地面に座り込んでしまい、
 「まる、重すぎてだめか、軽くするかなあ」と声をかけますと、牛は座ったまま、それでも何とか引こうとするのでした。そういう時、牛の目からは、せつなそうに大粒の涙がじっと流れます。牛はどんな重いものも泣きながら引いてくれたのです。
 そのまるを三年私達が飼育して、手放す時でした。
 農協の人が来て、牛を荷台に乗せようとしたのですが、どうしても上に乗ろうとしません。押しても引いてもだめでした。牛は何がおこるのか、ちゃんと周囲の情況から察知していたのでした。
 それで仕方なく、私が荷台の上に登って、
 「さあ、まる、お荊も乗ってくれよ」と言って綱を引くと、すぐに乗りました。
 私も涙が出てしまいましたが、牛もずっと大粒の涙を流し続けていました。
 荷台の上で、牛の鼻環を車の荷台の前にしっかりと結びつけました。が、皆が挨拶をすませて発車する時には、牛はいつの間にか後向きになって、私達の方をじっと見ているのです。どうやって向きを変えたのか、どうやって綱をゆるめたのか、今もって解りませんが、目からは涙がひっきりなしに流れていました。村はずれのトンネルで牛が高く啼き、それが家まで聞こえました。
by jpn-kd | 2010-05-30 13:35
日舞泉紫峰師匠3
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紫峰師匠は五歳で初舞台を踏んだ。『羽根のかむろ』を演じたのはロー丁の八戸中央劇場で今のオリオン駐車場の場所。当時は娯楽も少なく、踊りの会があると立ち見どころか、窓を外して、窓枠にしがみついて見物する人が出た程。六日町も人と人の肩がぶつかる程の混雑だった。六日町は八戸の浅草と坪ばれていた程の賑わいを見せた。
 紫峰師匠の踊りは子供ながら、前途を期待させるものがあったのだろう。栴檀は双葉より芳しの言葉があるように、紫峰師匠はスクスクと師匠や母親の愛情のもとに伸びて、現在があると言いたいが、そうは問屋が卸さない。
 このそば屋の二階に母子たちは居住し、そば屋は繁盛して万々歳と思うでしヨ。ところが世の中はそんなに甘くありませんゾ。日本舞踊は他の習い事がら比べると金がかかる芸ごとで、母のヨシノさんのやりくりは大変だったろう。
自分が苦労しているのも、女が自立する手だてを持たなかったことによると、食べるのも詰めて、必死に娘たちに金を注ぎ込んだ。そして、過労が元で病気になり、枕から頭が離れぬままに亡くなってしまう。母は三十九の若さで亡くなり、時に、姉は十四、妹が十二歳の時。母親はどれ程、気が残ったことだろう。幼い娘二人を残して、あの世に旅立つには、余りにもひどいと、どれ程思ったことだろうか。待てと止めても止まらぬものは、汽車の煙と人の身は、で、母の野辺の送りも何とか済ませたが、さて、困った。誰が困ったって、当の姉妹もそうだが、親戚縁者が困った。どうする、この姉妹を? 姉は勝気でワは引取りたくないども、妹はメンコイので妹なら引き取ってもよかべとの話も出たり、いや、そうでない、孤児院に行かすべきだの喧々諤々の中、気丈な姉がこう切り出した。
 「私たちはこのまま、この家にいます。お店を貸して、その家賃でなんとかします」

by jpn-kd | 2010-05-29 06:48
温泉めぐりの旅
三年前の旅行の写真、思い出すままに掲載
大分県別府、かんなわ、町全体が蒸されているようなところ、写真撮影は一月。坂道から湯気が上がっている。共同浴場は入浴料百円、誰もおらず、木箱に百円入れるだけ。
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by jpn-kd | 2010-05-28 09:37
日舞泉紫峰師匠2
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この隣に父の店があった。父は靴の橋文として有名な店がまだ下駄屋だった頃、靴屋に転業するべく尽力した。年期も明け、橋文から独立援助を受け開業し、商売は順調だったが、戦争の混乱もあり、父は身体を壊し、昭和二十二年に亡くなり、あっけない最後。女房は是川生まれのヨシノさん。二人の娘を残して先立った夫を恨んだこともあったろう。嘆いたことも一度や二度ではない筈。だが、欺き悲しんでいても事態は改善しない。そこで、二人の子供を食べさせるためにと、大工町から町よりの寺横町に居を移す。天聖寺の敷地を借りて最初は夫の経営した靴屋を営むが、靴職人に給料を払うと残らず、思い切って転業。それがそば屋、屋号は一二三でひふみ。久慈、階上なとから農産物を馬車で運んで来るお百姓さんたちは馬宿に泊まった。
それらの入を当て込んだのだろう。村平、新陽旅館の前身は湯宿で裏庭からは馬のいななきが聞こえてきた。
久慈街道の起・終点だった。寺横町には旧市内では最も古い警察官派出所があり、往時はこの場所が八戸の中心街であったようだ。母の経営するそば屋はその派出所の隣で、終戦後のドサクサにまぎれて八戸市内に土蔵破りが横行したが、寺横町だけは、その被害に遇わなかったそうだ。
 若い未亡人は長女のユミさんと紫峰師匠を抱えて、この子たちには私のような苦労はさせたくないと心に決めたのだろう。女は何か一生食べていけるだけのものを身につけなければといけないと、苦しい家計をやりくりして踊りを習わせるようにした。戦時中に東京から空襲を避けて疎開してきた踊りの師匠が村重旅館にいた。それが、花柳栄章師匠で八戸の花柳流を開いた基になる人。この師匠のもとに二人の娘は通った。姉のユミさんは踊りを途中でやめてしまうが、紫峰師匠は継続。

by jpn-kd | 2010-05-27 07:39
日舞泉紫峰師匠1
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人間ってのは実に不思議な生き物で、長く生きたいなんて思っても、なかなか、そうはいかない。また、早く死にたいなんて贅沢な事をぬかしても、なかなか死なないように出来ている。三益愛子って女優がいて、昭和三十年頃に、『母子星』『母山彦』『母子鶴』などの、母物って映画に沢山出演した。薄幸の母子のお涙頂戴の映画だが、これが結構世の中に受け入れられた所をみると、世間には自分は不幸だと思っている入が多く、共感を得るところがあったのだろう。絵空事の映画を見おわって映画館を出ると、あの映画より、
自分の方がなんぼか幸せだと、明日を又、元気に渡ろうと思わせたのだろう。
 映画や小説なんてのも、お固いものじゃ肩がこる。いっときヘラヘラと笑えたり、そんなものかなと思わせればそれで十分機能を果たしている。純文学とか教養映画なんてのは、面白くも可笑しくもなんともない。庶民に明日の活力を提供できるような、今日の自分を一時でも忘れさせるような物がほんの少しあればそれでいいのだ。
 ところが、この気の毒な映画のような境遇、境涯の人が八戸にいた。それも読者諸兄のよく知る人、それが泉紫峰さん。
 さて、どんな人生を歩んできたかをじっくり、そして、たっぶりと昧わっていただきましょう。
 紫峰師匠の本名は阿部(旧姓)洋子さん。昭和十九年大工町生まれ。父長吉は西山の生まれ、大工町で靴屋を営んでいたが、戦後間もなく亡くなった。大工町は藩政時代には大工職人などが数多く居住していた。久慈街道の玄関口として栄えた場所。今の於本病院のある所には、かっては加賀平という造り酒屋があり、明治・大正期の八戸を牛耳る程の大地主、三日町の太平カメラは末裔、明治二十九年に紺屋から八戸煎餅屋に切りかえた高亀商店。藩政時代から石屋を営む杉本石材店、高橋うめさんの経営する高貞染物店などが軒を並べていた。

by jpn-kd | 2010-05-26 07:58
イタコの話6
誰にも遺言というのは語りかね、残しかねたが、親子の仲をば睦まじく:」歌うような語るような口寄せが響く。
 家族が一通り終わると「問い□」に移る。ご親類と近所の人の番だ。オカミサマヘ一口ごとに謝礼を払うため盆の用意がされた。
 最初は本家、次に分家、親類の婦人たちは百円玉を何枚も握りしめながら順番を待つ。「私は妹夫婦とその子供二人」と口数を告げ、お盆に謝礼を人れて待つ。区切りに鉦がカンカンと打たれる。すると次の人が前に進み同様にする。
 最後は(止め□)。ミチビキにオドゴオヤをおろしたので、トメクチにはオナゴオヤをおろした。
 二歩進んでまた戻り、二歩進んではまた戻る:・、我が子に最後を見るに見かねて、三途の川を引き取った。右は阿弥陀様、左は地蔵様、前後はレンゲ花に囲まれて座っている。運命は天に任せるべし、十月は家内家族に喜びの連絡の入るぞよ」と、母(仏)は告げる。新仏、男親、女親の先祖霊を送りだす「仏おくり」になると、縁側の戸を開けて霊にお帰りを願う。 すべてが終わったのは午後六時に近かった。
 死者の霊を寄せるのは津軽・南部のイタコだけではない。宮城県のオ力ミサマやオガミンも、秋田県のイチコ、山形県のオナカマ、
福島県のワカもそうだ。呼び名こそ違い、東北各県には口寄せミコかおり、それぞれの暮らしの中で、死霊の言葉を語り続けている。北海道にはアイヌのシャマン・ツス、沖縄にはユタも死霊を呼ぶ。
 古代のシャマンの系譜は一つは神社に結びついて神社巫女となり、地方を遊行する歩き巫女となり、里巫女となる。民間巫女は□寄せや祭文語り、祈祷、占いを業として生きてきた。
 口寄せ巫女は仏教の影響を受け、極楽や地獄、三途の川などを語るが、その根はもっと深いところにある。イタコのつぶやきの底に古代が顔をのぞかせているとすれば、カミサマ、オガミヤに縁談や失せ物、事業の着手などの伺いを立てる都会人の心にも古代が影を落としている。
 明治初期までは口寄せ巫女が日本全土を歩いていた。村にはカミサマ、オガミヤがいた。
 巫女は神社巫女と民間巫女とに大別できる。神社巫女は神社に所属し、神楽を舞ったり、湯立ての神事を司り神意を託宣したが、現在はシャマンとしての能力を失い、神官の補助役になった。
   続く
by jpn-kd | 2010-05-25 08:28
八戸図書館貸出し増冊決定
他地域の図書館の現状を調べた結果、5冊貸出しが少ないことを認識し、来年四月から10冊貸出しに変更予定。冊数無制限が神奈川県、山形は50冊などと驚異的な地域もあった。
八戸の平均貸出し冊数は3・5冊、来年四月からの貸出しと、一年も先だが、しないよりはまし。それにつけても、「日本救護団」に脅かされずに、自発的に市民の利便を考えることだ。
武士と生まれた悲しさは、狭い道を拡げて通るが己が稼業、庶民の難儀を救うため、聞かぬうちならまだしものこと、聞いたからには、たとえどれほど山賊どもの数があろうとも、腕と目釘(柄の中にある刀を支える釘)の続く限り、斬って斬って斬りまくり、死人の山を築いてくれんず(鈴が森の白井権八)
by jpn-kd | 2010-05-24 07:53
イタコの話5
丈夫なじいちゃんで、「十八日からワカメの取り人れを始める」と、加工用の塩三十五袋を用意し、張り切っていた。それが、夜中にばあちゃんの声で急変に気づいた
光夫さんの妻ちよ子さん(四五)が医者に電話をかけているうちに息を引き取るという、あっけない死であった。
 「何も言わないで亡くなったので、何か言いたいこともあるでしょう」と、ちよ子さん。この地方では、野辺の送りの次の日に新□を寄せる風習があるが、一月は「神様を遊ばせる(祈祷、御祓い)月」なので、オカミサマが多忙とあってなかなか空きがなく、この日までに延び延びになっていた。
 光夫さんが乗用車で唐桑町小鯖に迎えに行った目が不自由なオカミサマ・小野寺さつきさん(五六)が到着、十畳と六畳の襖を取り払い、午前十時に新口が始まった。
 柳と桃の木の枝を白布で巻いて麻紐で結び仏壇に供え、数珠を箱の上に置き、般若心経を読経。続き赤布のついた鉦を片手にカンカンと打ちならし、「そもそも地獄と申すは一百三十六地獄、はや急げ、はや急げ、声はすれども姿は見えず……」と地獄探しの祭文を唱え、仏おろしに入る。まず、ミチビキ(導き)と称してオドゴオヤ(武さんの父親の仏)をおろし、次に新仏がおりて来る。
 「元気に任せて暮らしておった
が、今突然、思いも知らずに、あんな姿に閉じ込められたときは、胸の中から首筋、胸の辛さは何にもたとえようがない。問わるる我が身は、声を立てる力も、すがる力もない。怖さというか、だるさと言うか、身の置どころのないほどの切なさで、相の枕(妻)よ、そなたには、人に知れない苦労ばかりかけさせ、難儀をかけさせた。立つも急ぐも順序であればよ、心残りはなけれども、ただ思いを至り、置かれたり、今まで苦心艱難求めて、やっと我々が左右から、ジンチャンよ、バァチャンよ、と言われて安楽な月日を前に、この世を立たなけれぱならぬものか、相の枕や、人の命と言うのは、はかないものだ。
 ばあちゃんのうめさん(六八)や、ちよ子さんは顔を覆って泣き、親類のおばあさんからも嗚咽が洩れる。
 「血の上がり下がり、また疲れが起きるのであるまいか、そなたの健康と家庭の円満を析っている」仏は世継ぎの宝、孫の宝と血の濃い者から順々にに語る。

by jpn-kd | 2010-05-23 07:07
イタコの話4
慈覚大師がこの地を訪れ、宴の河原と命名、厚く信仰せよと言い残した、大正時代に無数の赤い蛇が出て、その異様さにイタコに□寄せを頼んだところ、「天明大飢饉で餓死した沢山の無縁仏が供養を求めている」とのことだった。その供養塚を「蛇塚」と呼んでいる。川倉は餓死者を埋めた場所だったと見られる。津軽に地蔵が多いのは,繰り返す凶作で半ば公然と嬰児を間引きし、餓死者を見殺しにしなければならなかった罪悪感を洗い流すために地蔵にすがったからだろうか。
 招霊の実際
 「仏をおろすのは神や仏の力でなければとてもできることではない。神仏の力を借りて一心こめてやる。見えてくるわけではない。自分の胸にバンとおりてくるものだ。見えてきたら恐ろしいものだべな」(イタコ長谷川ソワさん)
 「とにかく霊感というものはありがたいものでね。面影が見えてくることもある。病気で死んだらそれらしく病人の姿、水死ならぬれた姿で出てくる。死体が上がらない仏は、別の先祖を呼んだ時に出てくることもある」(イタコ笠井キョさん)
 一心に拝むと、その仏が成仏しているかどうかが分かる。成仏していない時は仏は出ない」(イタコ三本木せりさん)
 仏おくり
イタコの祭文や口寄せには、独特の節回し、リズムがある。文化庁委託の、「イタコの習俗」調査で、音楽サイドからの取材を担当した工藤健一さん(青森県民俗音楽研究会会員・弘前市)
  「採譜する必要上、口寄せを片っ端からテープに録音して歩くのだけど、交通事故で死んだ仏の梧りなんか、状況の描写がリアルそのものでねえ。後から再生して聞くとこわくなってきますよ」。
ゴミソ
葬式の後に行われる新口(新仏の口寄せ)は、死者と生者のこの世での最後の別れである。五十七年冬。この年は雪が少なく、やっと二度目の雪らしい雪で、路面が白く凍りついた一月三十日朝、わかめの漁場、気仙沼湾の階上の気仙沼市岩月宇宝ケ沢、吉田光夫さん(四五、宮城県唐桑町唐桑中教諭)の家では、柳と挑の本の枝を切り、オカミサマ(口寄せミコ)の到着を待っていた。
 光夫さんの父、武さんの新口があり、親類や近所の人達が二十人程集まっている。武さんは十五日の午前一時二十五分、心筋梗塞で急死。六十八歳だった。
 続
by jpn-kd | 2010-05-22 07:17
イタコの話3
そのとき神がつくが師匠はそれを感知し「何の神がついた」と叫ぶ。弟子は「○○」と神の名を答え、気を失う。本人は何と答えたか覚えていない。失神した弟子を用意した布団に寝かせ、師匠か姉弟子が人肌で温めて介抱し蘇生させる。
 神つけの日にはしめ縄を張り、その周りに一反の紅白の幕を巡らす。浴衣からお腰まで新しくして中に入る。儀式の後、師匠と三三
九度の盃を交わし、実際に神おろし、仏おろしをする。これを初口を寄せると呼ぶ。うまく□寄せが出来れば合格で、師匠はイタコとしての身分を認め、守り筒、数珠、弓、錫杖、おしら様などを授ける。
守り筒はイタコが背中に背負う物で、「ダイジ」「オダイズ」「オマモリ」などと呼んでいる。イタコに聴くと「神様が人っている」という。本人は見られないし、勿論他人にも中を見せることを禁じている。数珠は「イラタカの数珠」と呼ばれ、勤物の牙、爪、貝、古銭類がついており、何代もイタコの手を経てツヤツヤに光っている。
 新しくイタコになった披露に師匠、姉弟子、同じ地域内のイタコ、親類を招いて、ユルシの祝宴を張る。結婚の披露宴に匹敵する程の盛大な祝宴。巫女は神の嫁という観念があり、本人が振り袖に島田髪の花嫁衣裳なような盛装で席につく地域もある。祝宴の費用はかなりの額になるが、一切が本人の実家の負担だ。
 更に礼奉公を務めて師匠のもとを離れ、ミアガリ(一身上がり=一本立ち)する。その時も披露宴を催す。
 イタコのなりてがないため、南部でも津軽でも神つけの儀式や披露宴は行われていない。
 川倉地蔵の祭典は旧暦の六月二十三日を中心に三日間。年に一度ずつ会いにきて、供養して泣く。
二十二日の宵宮から十数人のイタコが集まり、口寄せを行う。子を亡くしたおがさまたちの心の痛みは、イタコの心の痛みでもある。
ここでも恐山の大祭のように泣いた後は歌い踊る。素人民謡大会の舞台がかかり、小中学生の相撲大会が開かれる。□寄せの声に混じり民謡が流れ、勝ち名乗りが響く。
 川倉地蔵
 津軽地方には地蔵信仰が盛んで、一例を上げると人口が約六千人の稲垣村に約千百体の地蔵があるという。この津軽を代表する地蔵祭りが川倉地蔵の祭典。千三百年前に川倉に火の玉が落ちるのを見て、その場に行くと石を三つ重ねた地蔵があった。

by jpn-kd | 2010-05-21 06:01


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