カテゴリ:忘れられない芸人( 5 )
5代目古今亭 志ん生

5代目古今亭 志ん生(ここんてい しんしょう、1890年〈明治23年〉6月5日 - 1973年〈昭和48年〉9月21日)は、明治後期から昭和期にかけて活躍した東京の落語家。本名、美濃部 孝蔵(みのべ こうぞう)。生前は落語協会所属。出囃子は「一丁入り」。戦後の東京落語界を代表する落語家の一人と称される。この年、勲四等瑞宝章を受章する。
1968年(昭和43年)、上野鈴本演芸場初席に出演。これが最後の寄席出演となった。同年10月9日、精選落語会に出演。これが最後の高座になる。この時、「二階ぞめき」を演じていたはずが途中で「王子の狐」に変わってしまったことをマネージャーである長女に指摘されたため以降高座に上がらなくなったが、5代目志ん生当人は引退した気などなく、少し休んでやがて高座に復帰する意志は持っていた。
1971年(昭和46年)12月9日、妻りん逝去。12月11日に葬儀が行われる。その翌日には8代目文楽が逝去。晩年の文楽は寄席や落語会に出演せず引退同様の状態であったが、高座に上がる気持ちは持ち続けていた。この年、すでに高座を去っていた文楽がウイスキーを土産に志ん生を訪ねて歓談し、別れ際に「二人会の相談をしよう」と呼びかけていたと家族が証言している。妻の葬儀でさえ涙を見せなかった志ん生だが、文楽の訃報を聞いて「皆、いなくなってしまった」と号泣した。
1973年(昭和48年)9月21日、自宅で逝去。享年83。



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by jpn-kd | 2018-02-01 00:00 | 忘れられない芸人
8代目桂 文楽 出囃子 野崎

8代目桂 文楽(かつら ぶんらく、1892年(明治25年)11月3日 - 1971年(昭和46年)12月12日)は、東京の落語家。本名、並河 益義(なみかわ ますよし)。自宅住所の住居表示実施以前の旧町名から、「黒門町(くろもんちょう)」「黒門町の師匠」と呼ばれた。
落語における戦後の名人のひとりといわれ、2歳年上の5代目古今亭志ん生と併び称された。志ん生の八方破れな芸風とは対照的に、細部まで緻密に作り込み、寸分もゆるがせにしない完璧主義により、当時の贔屓を二分する人気を博した。
出囃子
近松半二作の人形浄瑠璃(後に歌舞伎化)『野崎村』の『野崎』
最後の高座
高座に出る前には必ず演目のおさらいをした。最晩年は「高座で失敗した場合にお客に謝る謝り方」も毎朝稽古していた。
1971年(昭和46年)8月31日、国立劇場小劇場における第5次落語研究会第42回で三遊亭圓朝作『大仏餅』を演じることになった。前日に別会場(東横落語会恒例「圓朝祭」)で同一演目を演じたため、この日に限っては当日出演前の復習をしなかった。高座に上がって噺を進めたが、「あたくしは、芝片門前に住まいおりました……」に続く「神谷幸右衛門…」という台詞を思い出せず、絶句した文楽は「台詞を忘れてしまいました……」「申し訳ありません。もう一度……」「……勉強をし直してまいります」と挨拶し、深々と頭を下げて話の途中で高座を降りた。


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by jpn-kd | 2018-01-31 00:00 | 忘れられない芸人
介護講談田辺鶴瑛

八戸市民大学でも講演した師匠
全国を飛び回る
このたび映画化された
朝日新聞・産経新聞でとりあげられた
10月15日福岡・柳川での講演の模様をチラリごらんにいれる

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by jpn-kd | 2016-10-16 11:05 | 忘れられない芸人
忘れられない芸人 牧伸二ウクレレ漫談の新境地
師匠が牧野周一、牧伸二はもともとは声帯模写つまり物真似
これは昔、声色(こわいろ)と呼ばれ、ラジオやTVの無い江戸の昔からあったもの
当然、誰も知る人物を真似なければならず、歌舞伎役者が取り上げられた
昭和の一桁のころ、歌舞伎を見るのは一日がかり
払暁(ふつぎょう・夜明け)に都電、昔の市電に乗り替えながら歌舞伎見物
一日劇場に居ることになるので弁当を食いながら芝居を見る
それだけ芝居が庶民の間に厚い存在だった
だから、声色も真似る者が出た
それが、関東大震災で庶民に正しい情報伝達が切望されラジオの登場となる
ラジオに出たいという芸人は当初は少なかった
が、聴取者が増えると、ラジオで聞きましたとの評
これで芸人たちが出演するようになる
伝統の音曲、詩吟などに交じり落語・浪曲なども演ずるようになる
長い番組は敬遠され短く、衝撃的な芸が喜ばれるうち、敗戦で民間放送ができ、その傾向は一層強まった
牧伸二はそのラジオ番組「しろうと寄席」に出て注目される
ウクレレ漫談にするように教えたのが師匠の牧野周一
これで大ブレーク
天下の牧伸二に飛び上がり、師匠の牧野周一より輝いた
ハワイアンをもじった「やんなっちゃった節」で一世風靡
誰でも知るボードビリアンになった
声色は素人でもできる
が、一人や二人うまくても芸にならない
まして、真似る人物が死ぬと誰も見向きもしなくなる
牧伸二が務めた東京演芸協会の会長の座、その前は桜井長一郎という声帯模写の大家
この人物もうまかった
そっくりというほどではないが、聞く者に想像させる力を持つ
牧伸二が声帯模写を続けていれば、ブレイクはなかった
牧野周一の指導がよかった
師匠は弟子の力量を見定め、方向性をつけてやる
これが師匠の力だ
他にないもの、それを弟子がどう自分のものと消化できるか
師匠と同じことをしていれば、師匠を越えられない
新機軸をいかに出せるか
ここが弟子の力量、それを試されるのが娑婆世界だ

ウクレレ人生

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by jpn-kd | 2015-02-15 08:39 | 忘れられない芸人
忘れられない芸人 漫談は大辻司郎の造語だが名手は牧野周一
牧野は石巻の産、東京に二歳で出て戸山高校を受験するも合格せず、私学麻布高校に入学するも月謝が続かず退学、徳川夢声の弟子になり活弁の道を歩むも、映画が音声を出すようになり仕事がなくなる
そこで、漫談だと一人でしゃべり面白おかしいことを探る
伝統芸の落語とどこがちがうかを考え、時代性を全面に出す話芸を開発
もっとも、落語家も古典の話に入る前のマクラに今の世相を粗く掴んだことばをふって、古い話も今とつながる工夫をみせたりもする
芸人は他にないものを必死に掴み取ることを模索するものだ
落語は座って喋る、牧野は立って喋り、世相を巧みに笑いに変える
落語家は世相の粗で飯を食いという語があるが、牧野もまたそれが巧みだった
牧野は舞台への出入りにも工夫をした人
話芸は舞台に立つと幕があがる芝居とことなり、何もない舞台へトコトコと歩いて出てくるところからが勝負
当然消え方にも工夫が必要
寄席だと出囃子があり、それなりに雰囲気が出るが、TVの世界にはそれがない
TV時間には制限があり、次の出演者が遅れたりすると間をつなぐことが必要
その巧拙がTV向きか不向きかを決定
牧野は冗談を漫談に変え、弟子に牧伸二がいた

写真は那覇から離島に向かう泊埠頭
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by jpn-kd | 2015-02-14 09:33 | 忘れられない芸人


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