商工会議所を中心として八戸市を興隆させよう 3
商工会議所を中心として八戸市を興隆させよう 3
あるものを最大利用しよう、八戸市にあるのは美人力だ。
八戸市史から
昭和二十七年十一月、田舎の八戸なぞに電気などいらない、と偏見をもっていたらしい、電力王と称された松永安左衛門は、八戸を視察した際の宴会で珍味の「ホヤ」のお代わりをした。そのとき、側にいた八戸美人(芸者)が「先生、ホヤはいっぱい差し上げます。「その代わりに電気をください」と機転をきかしたところ、八戸に十五万ボルトの送電線ができた、と伝えられている。
その時、松永幾つか、77歳の爺だ。
それでは何故、松永が電力に影響力を持っていたか、共に、お浚いだ。
明治8年に壱岐島の旧家に生まれた安左エ門は、慶応義塾を中退し、家業を継ぐが3年で廃業。日本銀行に就職するも、サラリーマン生活になじめず1年で退職、材木商、綿糸ブローカー、石炭商、コークス商などを試みた。特に、石炭で大儲けし、人脈ができた。その人脈によって北九州での電力に目が向き、のちに九州電気株式会社を設立、電力業経営へと注力していく。当時の日本では、財閥が日本全体の富の7割を占めており、政治や産業界に大きな影響力をもっていた。しかし、安左エ門の持論は、産業は自由競争の立場で企業者は創意工夫をしながら大成してゆく、というものだった。加えて、安左エ門は自分が正しいと思ったことは権力に屈服しない、筋金入りの反骨精神の持ち主であった。九州から関西、東海道の電力会社を次々と傘下にした。大正12年の大震災で被害を受けた東京、横浜の電力会社は安左エ門に助けを求め東北電気、東京電力など約100社ほどを支配下にした。
 やがて日本は、軍部の統制が強まり、国家において電力の送電と発電を統制管理すると発表。安左エ門は、電力国家管理に反発して、「(軍部と手を握った)官僚は人間のクズである」と言い放ち、身の危険を顧みず反対運動を続けた。
 しかし、昭和12年「電力国家管理案」は国会で通過し、翌年日本発送電(株)を設立、昭和14年には戦争に突入した。安左エ門は、「俺は会社をやめる」と言い残し、一切の事業から手を引き隠居。
 終戦を迎えた昭和20年。安左エ門は、戦後の日本復興は電力、日本発送電を含むすべての設備を分割し、地域ごとに電力配給の責任をもつ「九分割案」体制。
 安左エ門はGHQへも足繁く通い、自説の説得にあたった。総司令官マッカーサーより安左エ門の案を容れた。孤軍奮闘のなかにおいても、安左エ門の根気強さが勝利した瞬間であった。
昭和26年、民営の九電力体制の整備にあたり、電気料金の適正価格算出を行った。各電力会社の要望は76%の値上げ。電力需要の上昇に伴い、燃料の石炭が需要に追いつかず、できたばかりの電力会社にとっては発電設備も乏しく停電解消が目下の急務。安左エ門は値上げは必要と主張。国会に参考人として呼ばれたが自説を曲げぬ。ために「電力の鬼」と呼ばれた。


by jpn-kd | 2019-01-08 04:56 | 八戸市興隆案
<< 商工会議所を中心として八戸市を... 商工会議所を中心として八戸市を... >>


ブログで行政改革をめざす日本救護団 080-9850-5240
メルマガ-まぐまぐ

メルマガ購読・解除


 

カテゴリ
タグ
以前の記事
記事ランキング
検索
楽天
その他のジャンル
画像一覧