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日本経済新聞社刊 「私の履歴書」から植村甲午郎
日本経済新聞社刊 「私の履歴書」から植村甲午郎
古きを訪ね新しきを知る。
経済連の重責を勤めた植村、その話に含蓄あり。


関東大震災にあったのは、荒井さんが農商務大臣のときであった。私はそのときの情景を忘れられない。ちょうど加藤友三郎内閣の更迭が必至となって、あすにも山本権兵衛内閣が成立しようという大正十二年九月一日(土〕の昼ごろ、工務局長の四条さんが私の部屋に来て「きょう鎌倉へ行くかい」「用が終わったら泳ぎに行こうと思っています」と話しているところへ、荒井大臣の奥さんから電話があって「長くお世話になりましたが、いよいよやめることになりました。ほんの内輪だけでここで食事を差し上げたいのですが……いつがいいですか」。私が「万障繰り合わせましょう」と言い終わるか終わらないか、そのときである、あの激震がきたのは。目前の次官室との隔壁のすみはパクパクロをあけている。思わず机につかまった。
明くる九月二日、山本権兵衛内閣が成立し、日暮れてから親任式があり、内閣総理大臣官邸の庭でちょぅちんの灯で初閣議が開かれ、ただちに各大臣の事務引き継ぎが行なわれた。市街の延焼はなお止まらず、空は赤く明るい。避難民は親類縁故をたよって夜中でも歩いている。公園、広場には家なく夜を明かす人の群れがいる。そこへ鮮人騒ぎの流言である。閣議の模様は隔壁がないから見えもし聞こえもする。食糧の問題も見通しは全く立たない。日本の一部にすぎないではないかと考えはするが、首都であり、また渦中にいると何か落ち着かない。凄然たる夜であった。
大震災関係で大きな政治問題となったのは、例の火災保険特別払い戻し問題である。震災の被害は、全壊家屋約十二万八千戸、半壊十二万六千戸、焼失四十四万七千戸、被害総額百一億五千万円という巨額に達した。
被災者は当然保険金の支払いを期待する。
保険契約に地震は含まれていない。ここに問題があった。
保険会社としては、保険は信用を基礎とした事業であり、利害は全般に及ぶ。もし約款に記載のない地震被害で膨大な損害を補償して経営が成り立たなくなれば、地震を受けなかった被保険者に対し責任をとれなくなる、約款にない損害の補償はできない——というのであった。その一方には、このような非常の際は国民感情その他を勘案してできるだけの補償をすべきであるとの考え方がある。特に被保険者はそのために保険をかけている、約款のことは知らずに契約したのだという強い気持ちがある。
当然これは社会問題となった。そこで山本総理大臣は就任早々の九月十六日、特に「保険会社はその事業の性質上、社会公衆のために尽くさねばならない」という告論を発した。だが事態収拾に乗り出してみると、保険会社によって支払い能力に差があり、中には被害者との契約が多いため倒産する会社も出かねない形勢である。加えて保険協会に非加盟の内国会社もあるし、被害の軽い関西の保険会社や外国会社の独自の動きもあって、業界の足並みは容易にそろいそうもない。
このため政府は低利の長期融資を見返りに、各社とも掛け金の一割をメドにできるだけ多く見舞い金を出すという線でようやく業界の意見を一本にまとめた。そして年内支給を目標に国会にこれに関する法案を提出、懸命に成立をはかった。が、政友会の賛成を得ることができず、ついに所管の田農商務大臣の引責辞職となったのである。このあと虎の門事件が起こり山本内閣は総辞職、ついで翌十三年一月七日に発足した清浦内閣は国民に信を問うため同月末国会を解散した。
一方保険の不払いで政府を追及する被災者の声は日ましに高まり、二月二十六日には東京府会議員を先頭に、赤だすきの陳情団が農商務大臣官邸に押しかけるという騒ぎになった。午後ニ時ごろ、警官がものものしく警戒する官邸正門前に殺到した陳情団は、大臣に会わせろとすわり込み、がんとして退かない。前田農商務大臣の郷津秘書官は警察畑の出身で大衆の処理には慣れている。適当にあしらわれているうちに、陳情団は、もう一人おとなしそうな秘書官がいるといって、私を呼び出し、私は殺気立った群衆の相手をさせられ、さんざんな目にあった。夜にはいってかがり火が赤々と燃やされた。七時ごろ大臣が車で現われると、群衆は歓声をあげて車をとり巻き、ガラス窓が割れた。その不隠な空気の中で陳情団の笠原委員ら代表五人が応接間で大臣に面会、十時すぎまで押し問答を繰り返した。陳情団が怒号のうちに退散したのは、十一時ごろであった。
その後も紛糾を重ねたが、結局政府は、利子四分、最長五十年の年賦償還で総額八千万円を各保険会社ごとに実情に応じ貸し付けることにし、保険各社はその負担能力に応じて小口契約については一割を確保、大口は逆累進して額を決めるという条件で最終案を固め、また政府は公債を発行して財源を作るという内容で、緊急財政処分で支出することにした。これには枢密院の審議を必要とするが、枢密院は、きわめて重要な案件である、新国会召集も近いので国会の審議を待つよう勧告、やむなく政府は国庫剰余金から責任支出することにし、四月十日に勅令八十四号を公布して、ようやくこの問題は落着をみたのであった。政府貸し付けは.三十三社に対し六千三百五十五万円、保険会社の自力脱撕觀七百八十六万円、計約七千百四十ニ万円の見舞い金が五月五日から火保加入の被災者に支給された。本件の解決につき政府関係当局の努力はもちろんであるが、保険協会長.東京海上火災各務(かがみ)社長の活動は特記さるべきである。
問題落着のあと、前田大臣は省内の.関係者を集め、芝の紅葉館で慰労の会を催した。苦労話に花が咲き、やがて余興に移ったとき、大臣は筑前琵琶師を呼んで那須の与一を弾かせた。田健治郎大臣の辞職までよんだ火保問題である。前田大臣はほんとうに政治生命をかけて、こん身の努力をされたのである。まさに扇の的を射る与一の心境であったろう。琵琶の音にはその感慨がこもっていた。一座は粛然とした。中松真郷保険課長はたまりかね肩をふるわせて泣いた。関係者一同また同じ思いである。みな下を向いてハンカチを出していた。私も涙が出て仕方がなかった。
那須与一の話はこうだ。
頃(ころ)は二月(にんぐわつ)十八日の酉(とり)の刻ばかりのことなるに、をりふし北風(ほくふう)激しくて、磯(いそ)打つ波も高かりけり。 舟は、揺り上げ揺りすゑ(え)漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。 沖には平家、舟を一面に並べて見物す。 陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。 与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光(につくわう、ニッコウ)の権現(ごんげん)、宇都宮(うつのみや)、那須(なす)の湯泉大明神(ゆぜんだいみやう(ミョウ)じん、)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度(ふたたび)面(おもて)を向かふべからず。いま一度(いちど)本国へ迎へん(ムカエン)とおぼしめさば、この矢はづさせ(ハズサセ)たまふな。」 と心のうちに祈念(きねん)して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。
与一、鏑(かぶら)を取つてつがひ、よつ引ぴいて(ヨッピイテ)ひやう(ヒョウ)ど放つ。 小兵(こひやう、コヒョウ)といふぢやう(イウジョウ)、十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦(うら)響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要(かなめ)際(ギワ、ぎは)一寸ばかりおいて、ひいふつ(ヒイフッ)とぞ射切つ(キッ)たる。鏑(かぶら)は海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。 しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一(ひと)もみ二(ふた)もみもまれて、海へさつ(サッ)とぞ散つたり(チッタリ)ける。 夕日のかかやいたるに、みな紅(ぐれなゐ、クレナイ)の扇の日出(い)だしたるが、白波の上に漂ひ(タダヨイ)、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船端(ふなばた)をたたいて感じたり、陸には源氏、箙(えびら)をたたいてどよめきけり。



by jpn-kd | 2018-09-07 12:22 | おすすめの一冊
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