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ヤドカリ人生野沢俊雄を考える12
ヤドカリ人生野沢俊雄を考える12
蕪島神社にあった弁天これが浮木寺に行った話には、もう一説ある。それは清水屋甚太郎の一族が語り伝えた。

清水家代々の言い伝え(清水のぶ氏八十七才の言にょる)
当神社と関係の深い、清水甚太郎の子孫であり、先祖代々、蕪島
辨財天を守って来られた、清水ノブさん(明治三十三年生)の話によれば、地頭職清水甚太郎が、伊勢詣りに出かけ帰途京都に立ち寄り、或る有名な仏師に極彩色の八臂の辨財天を作らせ、浦賀から船で鮫浦に着き、蕪島に勧請して祀り、多くの崇敬者がありました。やがて明治の神仏分離令が出され、八戸藩から佐川為教、他に林某が立ち合い、辨財天を杖でつついて、「これは神ではない、仏だ。」と云い、これに乱暴されたので、清水家にうつし、床下のオドシにかくまつたのです。その後京都の仏師に依頼して修理し、家に安置しておりました。ところが、浮木寺の住職千葉量光氏が、再三清水家に足を運び、「この辨財天を多くの人々の拝む対象にはしない、……これによつて金儲けはしない。」と云う固い約束をして、清水家から借り受け、そして寺の山門に安置して祀つたのです。
ここらの話は野沢俊雄と舘一族の是川中央保育園が、いつの間にか、こどもの城保育園に変わったように、立場の違いで言い分がことなるが、誰しもどっちが間違っているかは、押して知るべしで憶測、推測は真実とさほど違いはないものだ。

さて、野沢俊雄の管理が悪く、弁天さんを焼失した。これは厳然たる事実で、天下の宝物をむざむざ焼いた責任をどうとるつもりか。
やどかり人生は野沢個人の問題だ。蕪島神社は多くの人の心のよりどころだ。大罪を犯したという意識はないのかね。
投書にもあったように、火災保険の加入の有無、その補償額は? 幾ら足らずに寄付を願うのか、ここを明確に出来る書類がある。それは消防の、
① 火災調査報告書
② 実況見分調書
③ 質問調書
④ 火災原因判定書
⑤ 損害調査書

この⑤を開示すれば、その全貌が明らかになる。
ところが、消防はこれを開示しない

その野沢が明らかにしないカネの流れは氏子になれば会計書類を見ることで解決する。
が、氏子になってまで野沢のカネを追求する気がない。だから、内部告発を待つと記した。
野沢には知恵がない。困窮したときこそ生きる知恵が出る。学校で教わるのは知識で生きるためにはほとんど役に立たない。
野沢にはなかったが、江戸時代の宮司清水屋甚太郎には智恵があった。それが富くじだった。現今の時代、もっと面白く楽しく市民がこぞって参加したくなるようなカネの集め方がある。が、野沢に教える気はさらさらない。本当に困らないから智恵がでない。前のヤドカリを追い出し自分が入り込むことしか考えない智恵のない男に加担しなければならない義理はない。
さて、野沢がむざむざ焼いた弁天は、やはり清水屋甚太郎一族の所有していた貴重なものだった。それを記す。
浮木寺に渡ったのとは別に清水家に昔から代々祀られてあった辨財天が、もう一体ありました。これは、鎌倉時代、工藤祐経が頼朝公に従って寺社奉行をしていた当時、江の島の辨財天を作った同じ仏師に依頼し、それを模作して、工藤家で祀っていたのですが、祐経の死後、祐時が大切にお供をし、下って来て鮫浦に住み、此の辨財天を代々受け継いで、祀っていたのです。そして、海が時化で島に渡れない時、家で祭りをしたり、御祈禱をしていたのですが、蕪島には神仏分離以来、辨財天の御神像が無くなっこの御神像は座像で、高さ十六㌢、台座十九㌢、元来精巧な八臂の像で、極彩色をほどこしてあります。只、永い年月を経て、右腕が一本無く、色もあせ、模様もはつきりみえない所があります。王冠と光背は黄金色で 細かい細工が施されてあります。
厨子の高さは四十三•五㌢、巾二十ー㌢奥行十九㌢、黒の漆塗りで、扉には、四枚にそれぞれ立派な「扉絵」が精巧な極彩色で描かれてあつたと思われますが、今は色あせて見えない所もあります。
製作、勧請年代は記録されてありませんが、この棟札に、代参が行われた時からとありますから、清水家では宝永六年(約二七六年前)あたりから祀つてあつたと思われます。仏像に詳しい文化財審議委員の方々の話にょれば、この「扉絵」等から推定して、江戸時代以前(約四百年以前)に勧請されたものと考えられる、と言っておられます。
この辨財天御遷座の時の様子が、昭和七年頃、鮫青年団鮫支部発行の「鮫の土産話」の中に、次の様に述べられてあります。
「……浮木寺へ交渉し再び辨財天を蕪島へ貰ひ迎へやうと再三懇願致しましたがそれが遂に容れられませんでした、然るに大正四年に至り八戸藩主の御内神である辨財天の尊像が故あって鮫の旧家清水家に賜はりあるを聞き同家に乞ふて其年十一月盛大に遷座式を行ひ漸く蕪島に辨財天を安置して信者の渴仰を醫する事が出来ました、其の尊像は小なりと雖も往昔の美術の粋を極めたもので今鎮座しある辨財天こそ即ちそれであります。」
又、音喜多富寿先生が発行された「かぶ島の話」の中に、次の様に述べられてあります。
「御堂の横手に辨天さまがもう一つ奉祀されてゐるがこれは元藩主の内神として祀られてあつたのをさきの別當で社守をしてゐた清水屋甚太郎が請ひうけ内神として祀り風波で島へ渡れぬときはこの家で祈禱したり祭つたりしてゐたのを大正四年にかぶ島へ安置したものであると云ふ。」
これを野沢が管理不十分で焼失、その責任をどうとるつもりか。焼けたご神体を一度遷座し再建の道筋をつけなければ新しい社をつくることは叶わない。これは神道をかじったものの常識だが、野沢はそれをしなかった。此奴は資質に欠ける。


by jpn-kd | 2018-05-20 12:00 | 蕪島神社焼失事件
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