これに対し佐々木次長は「分かりました。松下電器に伝えます。こんなの納得できませんよね」と言って引き上げた。
それから二日後の4月30日、小林は佐々木次長にもう一度自宅に来てもらい、「覚え書きには同意できません。私はお金は一円も欲しくないし、安易な妥協はしない」と松下住設奥羽設備機器営業所の田中勇二郎所長へ宛てた書簡を渡し、併せて松下幸之助直筆の色紙を返却。
その後も小林は佐々木次長に再三、「松下の正式な見解はどうなっているか」と回答を促すが、「いくら催促をしても回答がありません」と繰り返した。
小林は5月26日新聞社大手にナショナルはるるは欠陥商品であると書留郵便を出したが、何の音沙汰もなかった。
その後、1983年(昭和58年)小林はマンデーを創業。商売は順調に推移し、小林は「はるる」欠陥商品の追求を再開。
八戸液化ガスを通して回答を求めても無駄だと、松下電器の東京支社を訪ねた。
応対した大阪本社秘書室泉課長は、
「おかしいですね、その件はすでに解決済みになっている」と二通のコピーを示した。
一通は八戸液化ガスとテレビサービス社との覚え書き、もう一通はその補足文書。
覚え書きは1981年(昭和56年)4月28日、八戸液化ガスの佐々木が持参した覚え書きと同一内容、1500万円(解決金)を始めとし、空白部分が全部植えられていた。
日付けは「よねくらホテル」で小切手を受け取る前日が記載され、小林がこの覚え書きに署名押印をしないにも関わらず、印鑑が押されていた。
小林はこの事実確認を八戸液化ガスの佐々木に確認すると、偽造を認め、
「覚え書き、覚え書き補足とも、原案は松下側が作成し、印鑑は私が押しました。鈴木社長とお会いできる機会をつくります」
佐々木は偽造を認めたものの、鈴木継男は逃げ回り、会うことをひたすら避けた。鈴木継男が小林と面会したのは、二年後の1987年(昭和62)7月28日。
偽造された覚え書き
作成年月日が昭和56年3月30日は鈴木継男が取締役社長とある。しかし、鈴木継男が八戸液化ガスの社長に就任したのは同年の6月、作成年月日は専務であった。
つまり、この覚え書きは虚偽だ。