沖縄のはなし 前泊博盛 「日米地位協定入門」15
NHKスペシャルで放映した「密使若泉敬 沖縄返還の代償」は密約を暴いた
この若泉敬は不思議な人物、この報道番組があることを知らなかった
前泊博盛の著書に導かれ、沖縄の嘗めさせられた苦汁の追認目的で沖縄県立図書館で「沖縄返還の代償」を発見
そこで忍者若泉の存在を知った
敗戦国日本の諜報機関として陸軍中野学校がある
この創設者が岩畔 豪雄(いわくろ ひでお)最終階級は陸軍少将で後に者、京都産業大学設立者の一人となる
岩畔は同大に「世界問題研究所」を設立し初代所長
若泉は1966年(昭和41年)、創立に貢献した京都産業大学より法学部教授として招聘され、同大学の世界問題研究所所員を兼任した。
当然、所長の岩畔とは上司・部下の関係
ここから若泉の動きが激しくなる
それまでの若泉は1950年(昭和25年)、東京大学法学部を受験し合格[3]。在学中、矢崎新二、岩崎寛弥、佐々淳行、粕谷一希、福留民夫、池田富士夫などと親交を深め、学生研究会土曜会のメンバーとして活動し、芦田均などの政治家や大山岩雄などの言論人の知遇を得る。1952年(昭和27年)に国連アジア学生会議の日本代表としてインドとビルマを訪問し、このときの体験をもとに大林健一の筆名で『独立インドの理想と現実』と題する小冊子にまとめて刊行した。
1954年(昭和29年)、東京大学法学部政治学科卒業後、佐伯喜一の知遇を得て、保安庁保安研修所教官となる。1957年(昭和32年)、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学院修了。1960年(昭和35年)、米国ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所(SAIS)に留学。客員研究員として滞在中、マイク・マンスフィールド、ディーン・アチソン、ウォルター・リップマン、ウォルト・ロストウらと面識を持つ[4]。
1961年(昭和36年)より防衛庁防衛研究所所員。と泣かず飛ばず

つまり、岩畔の導きで若泉は水を得たアユのように動き出す
その頂点が佐藤首相の密使となる
1966年頃から、面識のあった愛知揆一の紹介で時の首相・佐藤栄作に接触するようになる。佐藤は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わったとは言えない」と演説したように、沖縄返還に並々ならぬ熱意を持って臨んでいた。翌1967年(昭和42年)、自由民主党幹事長・福田赳夫を通して、沖縄問題についての米国首脳の意向を内々に探って欲しいとの要請が伝えられ、これを期に密使として度々渡米し、極秘交渉を行うこととなる。若泉と会ったのはアメリカ国家安全保障会議スタッフのモートン・ハルペリンであった。ハルペリンは沖縄返還交渉の方針を決めた国家安全保障覚書13号の起草者であった。
「核抜き・本土並み」返還の道筋が見えてきたところ、日米首脳会談直前の1969年(昭和44年)9月30日、国家安全保障担当大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーより、「緊急事態に際し、事前通告をもって核兵器を再び持ち込む権利、および通過させる権利」を認めるよう要求するペーパーが提示された(なお、密使としての活動で、若泉はコードネーム「ヨシダ」、キッシンジャーは「ジョーンズ」を用いた)。同年11月10日 - 11月12日の再交渉で、若泉は「事前通告」を「事前協議」に改めるよう主張、諒解を得る。この線で共同声明のシナリオが練られることとなり、11月21日に発せられた佐藤=ニクソン共同声明で、3年後の沖縄返還が決定されることとなった。
なお若泉は極秘交渉の経緯を記した著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス[5]』(文藝春秋、1994年)において、核持ち込みと繊維問題について作成した日米秘密合意議事録の存在について触れている。同書によれば、佐藤とニクソンは、ウエストウイング・オーバルルーム隣の「書斎」で、二人きりになって署名したという(この覚書は佐藤により持ち去られ、のち2009年(平成21年)に本人宅で発見された)。
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by jpn-kd | 2015-09-18 00:25 | 沖縄
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