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妻の名声の陰に
日本における婦人記者第一号で、新しい教育の実施者として有名な羽仁もと子女史は、昭和三十二年単四月七日、八十三歳の高齢をもって文字通りに眠るがごとき大往生をとげた。ちょうどお釈迦さまの生まれた日の一日前であるが、その日の羽仁邸はまったく涅槃会そのものだった。
女史はすでに数年前から老衰して生ける屍のような状態におちいっていて、自由学園の卒業生が交代で看病をつづけていたのである。そしていよいよ臨終がせまったとなると、一部のものに最後の対面が許された。すると、先生が私の手をにぎって下すった、私のいったことをうなずいてきいて下すった、先生はよみがえりたもうた、といった調子で、それはそれはたいヘんな騒ぎだったという。
葬儀は自由学園において、元文相天野貞祐氏が委員長となり、学園葬としておこなわれた、参列者は長谷川如是閑、小泉信三、安倍能成など、日本文化を代表するに巳たちをはじめ全国からはせ参じた『友の会』などを加えて数千名に達した。ジャーナリスト、教育者として、これくらい見事に、功なり名とげたような形で死んでいったものは、女史はもちろん、男子の中にも珍しいといわねばならぬ。こういう人気、魅力はいったいどこから、どうして生まれたのであろうか。
晩年のもと子女史は、自由学園の創立者兼園長、雑誌『婦人之友』の主筆であったばかけでなく、自由主義教育の家元であり、信仰と教育と生活を結びつけた一種の新興宗教の教祖でもあった。しかもその信者もしくは支援者の中に、当代の最高知識と見られる人々の多くを包含しているのである。
だが、もと子女史や自由学園に直接関係して、その実態をよく知っている人々にいわせると、女史をして今日あらしめたものは、ほとんどその夫君吉一氏の力で、人間としても彼女よりははるかに上である。彼女の人および事業は、彼の演出にかかる部分が多いということになる。
ところが、その吉一氏については、ほとんど世間に知られていない。もと子女史にこういう夫君がいたということを知っている人さえすくないのではあるまいか。彼は三十年十月に亡くなったが、当時の新聞を見ても、自由学園理事長、婦人之友代表取締役という肩書き以外に、経歴などについては何にも害かれていない。新聞社にも資料がまるでなかったのであろう。恐らく彼は、松岡もと子という女性に、羽仁という自分の姓を与え、これを社会的に演出するという仕事に、その全生涯をささげたのではないかと思う。そしてそれは素晴らしい成功をもたらしたのであって、男の生きかたにもこういう方向があるということに、私は特に興味を感じた次第である。
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