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日舞泉紫峰師匠9
先生は日舞の師匠がどのような仕事か知らずに、そうかと応えた。それは教室での出来事で、紫峰さんは物静かな、おだやかな子だった。明るい性格ではあるものの、何処かに沈んだ気持ちがあったのだろう。
今の紫峰師匠からは想像も出来ないが、置かれた境涯がその顔を明るくもし、暗くもする。
 師匠には漠然とした将来への不安があったのだろう。先生は手踊りくらいのことしか、踊りについては知らなかった。日舞の師匠とは一般的な生計を立てていけるものなのだろうかと疑問に思った。踊りの世界は一般人のものとは大きく異なるので当然のことなのだ。
 母の枕元で紫峰さんは先生に自分の将来への決意を示した。そう言わなければ自分が駄目になる、押しつぶされると子供心に思ったのだろう。
 先生はその時、どのように返事をされたかは覚えておられない。
きっと「そうか、頑張れよ」と仰ったのだろう。教師という職業は多くの子供を見て、その中にキラリと先るものを見いだし、それを大きく育て、華の咲くのを楽しみにする園芸家のような所がある。
肥料をやり、悪い芽を摘まなければならぬ所もあるが、子供はそれぞれの人生に果敢に、そして積極的に取り組んでいく以外に方法はない。教師はその人生の僅かな時間をじっくりとたっぶりと見届けさせて貰うのだ。
 そして、巣立って行く、雄々しく、あるいは弱々しい後ろ姿をいつまでも覚えている。あの子は今どうしているか? と、遠くから見守る以外に方法はない。倉本先生は結婚して杉本先生と名前が変わり、教頭から校長へと出世をされた。
担任からは外れてしまうが、それでも子供たち一人ひとりが可愛くて、誕生日が来ると、名刺の裏に、お誕生日おめでとう、これ
からも頑張ろう、などの一言セージを欠かさずに贈られたそうだ。教師は定年退職しても、子供らのことを案じている。
 杉本先生の奥さんも教師で担任を定年まで受け持たれ、多くの子供と密接な関係を保たれた。女性の教師は校長になる人は少なく、
それだけ、多くの子供と深い関係を持ちつづけることが出来る。これは幸せなことだ。誰しも立身出世を夢みるものだが、校長になる
ことよりも、子供と深く関わることに喜びを見いだす先生は多い。そのこと自体が、教師を希望した源でもあるのだ。
 杉本先生夫妻は今でも夜中に飛び起きて、今、○○君の夢をみた。どうしているのだろうかと案じたりもする。教室の何番目の席に座り、活き活きとした眼を輝かせる少年、少女の姿が今でも、ありありと瞼に浮かぶそうだ。
 有難いものじゃないか。こうまでして、生徒のことを考えてくださる教師がいたのだ。教師は多くの生徒に接し、それが巣立てば、後は次の子供らのことで頭が一杯になり、古いことはカラリと忘れるものだとばかり思い込んでいた筆者は眼から鱗の落ちる思いだ。
 こんな優しい、気配りを忘れぬ杉本先生の本質を紫峰師匠は見抜いていたのだろう。教師は生徒を見つめるばかりではなく、生徒からも見られているのだ。

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by jpn-kd | 2010-06-22 04:38
日舞泉紫峰師匠8
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 どの家も中流で、同じような暮らしをしているからだ。だが、この姉妹のような境遇に陥らないとは限らない。社会保障が整備され、国がやる、県や市が面倒を確かにみるのかも知れぬが、日々の生活の補助や援助はしないものだ。そんな気配り、声がけは地域の人し
か出来ないのだ。それを、夏は窓を開け放たなければならなかった昔の寺横丁の人々は実践した。
 父母が交通事故や事件で亡くなった子どもは今でもいる。だが、そうした子を遠巻きにして眺めていないか。支えというのは、日々の暮らしに役立つことを言う。現在の我々は寺横丁の人々の人情を成し得るのだろうか。大いに疑問とする所だ。
 この姉妹を受け持った先生はどのような眼でこの子たちを見ていたのだろう。教師という仕事は小学生、中学生という限られた期間の子供たちをずっと見つづける。その年代の子どもたちしか見ないという極めて珍しい職業なのだ。
 教師は薄給で、どれほど、してやりたい、支えになってやりたいと念願しても、それを叶えることは至難だ。育英資金などの手段方法もあるが、困窮した子供が直ぐにそれを手にすることは難い。そのため、役に立てない自分自身をひどく責める教師もいる。それが社会の仕組みであることは判っていても、何かをしてやりたいとの気持ちと現実は乖離している。この紫峰師匠の教師は倉本喜代七先生で、田名部から吹上小学校に赴任してきた。初めて担任したのが紫峰さんのクラスだった。先生にお目に掛かって、当時のことを思い出していただいた。
 五年生の時だった。クラスの女の子が阿部さんのお母さんが亡くなったと告げた。先生は取る物も取り合えず、寺横丁の紫峰さんの家に向かったそうだ。そして、二階の部屋に入ると布団に寝かされた母親の両側に姉と妹がつくねんと座っていた。妹は窓際に、姉は母親の枕元に。
 倉本先生は顔を覆っていた白布をそっとめくって見ると、痩せこけた顔が目に入った。結核は当時は不治の病だった。栄養も足らなかったのだろう。辛かったろう、二人の子供を残して旅立つのは心残りだったろうと思うと、熱いものがこみ上げてきて、白布を持った手がふるえた。
 そんな先生の姿を見て、紫峰さんは「先生、私は踊りの師匠になるの」とポツリ洩らしたそうだ。この言葉は前にも聞いたことがあった。

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by jpn-kd | 2010-06-21 07:13
日舞泉紫峰師匠7
 前号では両親が亡くなり、二人の姉妹を親戚縁者が集まり、孤児院にでも人れるかなどの悲惨な状況を説明し、それに対して中学二年生の姉が私たち姉妹は、ここで暮らしていきます。離れ離れにはなりませんと宣言。そして、二人は寺横丁で生活していった所まで伝えた。
 身寄り、頼りのない孤児は二人で犬っころが身体を寄せ合うようにして寒さをしのぎ、暑さをはね除けて生きていく。人間ってのは死ねば楽になる。生きているうちは始終苦労の尾根、困難の谷に遭遇する。そして、それをどのようにかいくぐったかが問われるのだ。
時には頬に涙し、時には満面に笑みを浮かべながら。それが人生なのだ。その山と谷が高く、そして、深いがゆえに後年はそれを耐え忍んだことを、楽しい思い出として人生の記憶のアルバムに貼ることができる。
 こんな境遇の子供たちを寺横丁の人々はあたたかく支えた。もし、我が子が同じような境涯になった時、きっと誰かが支えてくれる筈。
そして、その支えを今私たちが、この姉妹にしてやらねば、人間として恥ずかしいと思ったのだ。これが尊い。我が身忘れて他人のために尽くす行為程気高いものがこの世にあるだろうか。
 誉められたくてするんじゃない。人間として、出来ることからすると、日々の食事の世話や洗濯物まで気軽に声をかけてくれた。隣にあった交番の巡査も親切だった。柏木旅館のおかみさんも優しかった。接待洋品店の主人は、中学二年生の長女にアルバイトをさせてくれた。長女も施しを受けることに甘んぜず、自分の身体をこき使い、額に汗して生活の糧を得ようと努力した。
 現在は長命の時代、暮らしは一億国民が中流と叫ばれるように、世の中は暮らしよくなった。薪も炭も必要なく、ガスやクーラーの
時代で快適に生活は出来るが、何か大事な物を落としてしまった気がする。冷暖房機器を快適に運転するために、窓や扉が閉じられて、隣の人の生活も気にならなくなった。

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by jpn-kd | 2010-06-17 07:06
日舞泉紫峰師匠6
踊りを習って下さった明治生まれの女性たちに深甚なる感謝を申し上げたい。貴女方の貴い心が今の立派な紫峰師匠を作りましたヨ。貴女方の支援があればこそ、八戸で一番と呼ばれる日舞の師匠が誕生しましたヨ、と声を大にして伝えたい。この、人を伸ばし育てる心構えを我々現代を生きる者も継いでいきたいものだ。これこそが、金を扱う動物である人間にだけ許されたことなのだ。
 幼い姉妹を残して死んだ父母は、この娘たちが間違った世界に行かず、堂々たる人生を歩んで欲しい、何事にも屈せず、思いのたけを人生にぶつけて欲しいと念願したことだろう。姉に母親がこう言った。どんなことがあっても、必ず道は開ける、だから、辛くとも明日を信じて歯を食いしばって頑張るんだヨと、そして更に、こう続けた。妹を先に嫁に出しなさい。あの娘は甘えん坊だから、一人で生きては行けない、だから、あんたより先に嫁に出しなさいと。そして、その言葉を姉は忠実に守った。紫峰師匠は金中木材工業の長畑経理部長が、もう少し踊りの生徒が増えるまで仕事を続けて、これなら大丈夫という所まで会社にいて様子を見なさいと忠告してくれたが、紫峰師匠はこれで大丈夫だと稽古場を設けた。それは家の前の柏木旅館に。
そして、その稽古場に多くの生徒さんが集まった。父母の運の悪さを、この妹の紫峰師匠が逆目の全て運の良さで引き受けることになる。ここが人生の妙、不可思議なるところで、長い目でみると、一時、半時の繁栄は夢、自身の生涯がどれ程、悪運、悲運にいとどられていても、この紫峰師匠のように、自分の子供がそれらの悪運の反対、幸運を何度も手にすることがある。
 運の悪いを数えるはよい、それは自身を励まし、更に精進するためのもといとなる、だが、運の悪さ、人が良くしてくれなかった事を数え、あの人のあれが駄目、この人のこれも駄目と他人のダメを押すようになると、それは衰運の始まり。他人を挙げつらうより、自身の至らなさを嘆くが先、どうしても、我が身を忘れて他人を責める。これをすると、本人の幸運も逃げる。それのなかったのが姉、こうした父母の先立ったことを、仕方がない、他人が出来ないような経験をさせて貰えるのも大事な事だと、まるで自分自身を他人視している。この姉ありて初めて師匠ありき。

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by jpn-kd | 2010-06-10 07:04
日舞泉紫峰師匠5
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母の亡き後、姉妹は今までのような暮らしを続けるのだが、小学生と中学生、近所の人の世話もあり、何とかやって行く。一年は三百六十五日あり、暑い日もありゃ寒い冬も来る、その毎日をどのように送り、どんな風に食事を作り、どんなように暮らしたのか、想像するだに胸が熱くなる。天涯孤独の言葉があるが、渡る世間の冷たい風に吹き曝されても、姉妹二人が身を寄せ合って、その強い風をしのいで行った。
 姉は中学を卒業すると就職するが、両親が居ないじゃロクな所にも採用されない。それでも、歯科医師会に就職し事務の基礎を教わり、岩泉町の森歯科で事務をとっていたが、これでは妹に日舞を習わせることができないと、東京に出て看護婦の見習いをし、資格を取り八戸に戻り少しでも多く収入を得て、妹のために使いたいと慣れない東京で努力を重ねるが、その妹が病気になり中断。泣く泣く八戸に戻り、知人の紹介で小中野の中村医院に事務として勤務した。この妹思いの姉がいたので、今日の紫峰師匠があるのは間違いない。どんなに紫峰師匠に才能があったとて、誰かが支えてくれなければ目的完遂できずに沈没挫折でモノにならなかったことだろう。
 姉も頑張り屋だったが妹も中学を卒業すると、小中野の金中工業所に入社した。この会社は中村寿男氏が経営するもの。中村寿男? 何処かで聞いた名前だ? そう、松竹などの映画館を経営した八戸の映画王の中村寿男。現在テアトルを経営する中村文彰氏の父君。ここに紫峰師匠は四年勤務。会社から十日間の休みを頂き鎌倉に行き、泉流の名取免状を得るのだが、何故泉流と疑問に思う人もいるだろう。最初は花柳流の師匠についたのだが、途中から泉流になった訳は次号でじっくりと解説しよう。
 名取になる時にはそれ相応の金を納めなければいけなかったが、何しろ姉妹二人で生活をしているのは、誰しも知っている、この辺も助けていただいたそうだ。
 往時の寺横町住人の心優しいことは前述したが、姉の勤務する中村病院の奥様や本寿寺の大黒さんも気の良い方、又、南部会館に明治生まれの女性の会があり、名取になった事で、それらの人々が、この娘を助けてやりたいと、何人もの人が踊りを習ってくれたそうだ。気がいい人々だ。その熱い心に筆者は感謝したい。

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by jpn-kd | 2010-06-03 07:57
日舞泉紫峰師匠4
十四歳と言えば中学一年生だ。今の子供にこんな大胆な発想が出るか? この一言で決定し、姉妹が離れ離れになることは回避された。店を八戸えんぶりの人形などを造った雇地(やとち)のお爺さんに借りて貰った。この人が本当にいい人で、孫の年程の姉妹に色々と優しく教えてくれたそうだ。その他にも、
柏木旅館のおかみさんや近所の人たちが、残された姉妹をなんとか助けようと、誰しも楽ではない暮らしの中で、みそ汁が出来たヨ、魚が煮えたと持ってきてくれた。
 往時は隣家がどんな食事をしているかが覗けるような開放的な所があり、困った時はお互いだヨと気軽に姉妹に声をかけてくれた。近隣の者が親代わりになって、この姉妹を助けなければ、人の道を踏み迷うと思い込んでいた。昨今なれば核家族などの嫌な言葉があるように、他人のことは我関せず、その代わり、私のことも放っておいてとの我利我利亡者ばかり。嫌な時代になったものだ。
 隣の交番の人も親切で、いつでも守られているような気になっていた。母親が死んでも、妹は二階で踊りの稽古をして、近所の人に「母親が死んだというのに、あの娘は……」と嘆かせたこともあるが、何、紫峰師匠にすれば、嘆いてばかりいるより、少しでも身体を動かしている方が気が紛れるのだ。父が死に、母が死んでしまえば、世の中に血縁と言えば、姉一人、そのたった一人の姉とも喧嘩ばかり。
 姉は姉で、何とかなる、頑張る以外に方法はないと、早起きして弁当を作り、妹を学校に出し、戻れば家の前にあった接待洋品店にアルバイトに出かけた。当時の洋品店は仕入れたブラウスなどはセロハンの袋に人れて綺麗に陳列したもので、その仕事やら店番など、中学一年生なれど、負けん気の強い子だけに存分にこなした。貰った給料は妹のための洋服に化けた。でも、姉はそんなことを一度も辛いと思ったことがない。だって、当たり前のことをしただけなんですと言い切る人間としての凄さを持つ。
 続
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by jpn-kd | 2010-06-02 05:34
日舞泉紫峰師匠3
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紫峰師匠は五歳で初舞台を踏んだ。『羽根のかむろ』を演じたのはロー丁の八戸中央劇場で今のオリオン駐車場の場所。当時は娯楽も少なく、踊りの会があると立ち見どころか、窓を外して、窓枠にしがみついて見物する人が出た程。六日町も人と人の肩がぶつかる程の混雑だった。六日町は八戸の浅草と坪ばれていた程の賑わいを見せた。
 紫峰師匠の踊りは子供ながら、前途を期待させるものがあったのだろう。栴檀は双葉より芳しの言葉があるように、紫峰師匠はスクスクと師匠や母親の愛情のもとに伸びて、現在があると言いたいが、そうは問屋が卸さない。
 このそば屋の二階に母子たちは居住し、そば屋は繁盛して万々歳と思うでしヨ。ところが世の中はそんなに甘くありませんゾ。日本舞踊は他の習い事がら比べると金がかかる芸ごとで、母のヨシノさんのやりくりは大変だったろう。
自分が苦労しているのも、女が自立する手だてを持たなかったことによると、食べるのも詰めて、必死に娘たちに金を注ぎ込んだ。そして、過労が元で病気になり、枕から頭が離れぬままに亡くなってしまう。母は三十九の若さで亡くなり、時に、姉は十四、妹が十二歳の時。母親はどれ程、気が残ったことだろう。幼い娘二人を残して、あの世に旅立つには、余りにもひどいと、どれ程思ったことだろうか。待てと止めても止まらぬものは、汽車の煙と人の身は、で、母の野辺の送りも何とか済ませたが、さて、困った。誰が困ったって、当の姉妹もそうだが、親戚縁者が困った。どうする、この姉妹を? 姉は勝気でワは引取りたくないども、妹はメンコイので妹なら引き取ってもよかべとの話も出たり、いや、そうでない、孤児院に行かすべきだの喧々諤々の中、気丈な姉がこう切り出した。
 「私たちはこのまま、この家にいます。お店を貸して、その家賃でなんとかします」

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by jpn-kd | 2010-05-29 06:48
日舞泉紫峰師匠2
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この隣に父の店があった。父は靴の橋文として有名な店がまだ下駄屋だった頃、靴屋に転業するべく尽力した。年期も明け、橋文から独立援助を受け開業し、商売は順調だったが、戦争の混乱もあり、父は身体を壊し、昭和二十二年に亡くなり、あっけない最後。女房は是川生まれのヨシノさん。二人の娘を残して先立った夫を恨んだこともあったろう。嘆いたことも一度や二度ではない筈。だが、欺き悲しんでいても事態は改善しない。そこで、二人の子供を食べさせるためにと、大工町から町よりの寺横町に居を移す。天聖寺の敷地を借りて最初は夫の経営した靴屋を営むが、靴職人に給料を払うと残らず、思い切って転業。それがそば屋、屋号は一二三でひふみ。久慈、階上なとから農産物を馬車で運んで来るお百姓さんたちは馬宿に泊まった。
それらの入を当て込んだのだろう。村平、新陽旅館の前身は湯宿で裏庭からは馬のいななきが聞こえてきた。
久慈街道の起・終点だった。寺横町には旧市内では最も古い警察官派出所があり、往時はこの場所が八戸の中心街であったようだ。母の経営するそば屋はその派出所の隣で、終戦後のドサクサにまぎれて八戸市内に土蔵破りが横行したが、寺横町だけは、その被害に遇わなかったそうだ。
 若い未亡人は長女のユミさんと紫峰師匠を抱えて、この子たちには私のような苦労はさせたくないと心に決めたのだろう。女は何か一生食べていけるだけのものを身につけなければといけないと、苦しい家計をやりくりして踊りを習わせるようにした。戦時中に東京から空襲を避けて疎開してきた踊りの師匠が村重旅館にいた。それが、花柳栄章師匠で八戸の花柳流を開いた基になる人。この師匠のもとに二人の娘は通った。姉のユミさんは踊りを途中でやめてしまうが、紫峰師匠は継続。

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by jpn-kd | 2010-05-27 07:39
日舞泉紫峰師匠1
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人間ってのは実に不思議な生き物で、長く生きたいなんて思っても、なかなか、そうはいかない。また、早く死にたいなんて贅沢な事をぬかしても、なかなか死なないように出来ている。三益愛子って女優がいて、昭和三十年頃に、『母子星』『母山彦』『母子鶴』などの、母物って映画に沢山出演した。薄幸の母子のお涙頂戴の映画だが、これが結構世の中に受け入れられた所をみると、世間には自分は不幸だと思っている入が多く、共感を得るところがあったのだろう。絵空事の映画を見おわって映画館を出ると、あの映画より、
自分の方がなんぼか幸せだと、明日を又、元気に渡ろうと思わせたのだろう。
 映画や小説なんてのも、お固いものじゃ肩がこる。いっときヘラヘラと笑えたり、そんなものかなと思わせればそれで十分機能を果たしている。純文学とか教養映画なんてのは、面白くも可笑しくもなんともない。庶民に明日の活力を提供できるような、今日の自分を一時でも忘れさせるような物がほんの少しあればそれでいいのだ。
 ところが、この気の毒な映画のような境遇、境涯の人が八戸にいた。それも読者諸兄のよく知る人、それが泉紫峰さん。
 さて、どんな人生を歩んできたかをじっくり、そして、たっぶりと昧わっていただきましょう。
 紫峰師匠の本名は阿部(旧姓)洋子さん。昭和十九年大工町生まれ。父長吉は西山の生まれ、大工町で靴屋を営んでいたが、戦後間もなく亡くなった。大工町は藩政時代には大工職人などが数多く居住していた。久慈街道の玄関口として栄えた場所。今の於本病院のある所には、かっては加賀平という造り酒屋があり、明治・大正期の八戸を牛耳る程の大地主、三日町の太平カメラは末裔、明治二十九年に紺屋から八戸煎餅屋に切りかえた高亀商店。藩政時代から石屋を営む杉本石材店、高橋うめさんの経営する高貞染物店などが軒を並べていた。

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by jpn-kd | 2010-05-26 07:58


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