六十億円ポンプ場建設疑惑2
資産税課、市民税課、収納課は洪水警報が出ると出勤すると規定されているそうだ。平成18年10月6日は金、7日は土、8日は日曜日。出水したのは7日の午後六時頃、切れの悪い喋りは、消防からの資料が手元にないため。開示請求しても、彼らが動かないかぎり、二十日は待たされる仕組み。役所の都合で世の中は動かないが、実際は彼らが動かないと、こうした事態解明すら迅速にはできない。
 三課(前者資産税など)が出動し、浸水家屋を調べて歩く。ここで疑問だ。
①地域を定めて調査をしたのか、被害家屋からの調査依頼を受けて出動したのか?
②浸水被害票を作成したのは複数名なのか
③立会人の欄が空欄になっているのは意図的に空欄にしたのか
④調査時間が記入されていないのは、浸水時に、現場に行かなかったことを隠すためか
⑤現場写真を添付しないのは、調査現場を確認されることを恐れたためか?
⑥浸水被害が1センチから49センチという欄に○が記入されている意味は何を示すのか? 税の減免のために必要なのか?
この浸水被害票を開示請求した。職員が提示した書類を目視した部分、記憶にある部分から、⑥までの項目を指摘したが、開示請求が通り、書類が手許にあれば、更なる指摘も可能。
 この浸水被害票を市民税課長は、安全防災室の許可を得て見せるように課員に言ったが、原票を所有する課が、その決定権を持つ。それを他の課に責任転嫁するは下劣、下劣。市民税課長は自分の職責を知れ。
 事態解明は市民の仕事ではない。役人の仕事だ。本末転倒では給料を返せ。
# by jpn-kd | 2009-07-23 08:06
六十億円ポンプ場建設疑惑
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6月8日市議会建設協議会が開かれ、下水道建設課から、河原木第二排水ポンプ場の工事契約についての説明があった。
 その席で坂本みちのぶ議員が、六十億円もの工事に、こんな事務的な説明では困る。どうして、この工事が必要になったかを明らかにするべきだと斬り込んだ。
 次の協議会で説明するとなり、7月16日に大雨で床上浸水24棟あったと説明された。この協議会に肝心な坂本みちのぶ議員は欠席。
 そこで「日本救護団」が解明に乗り出した。昨、21日、午前十時四十五分、消防本部で平成18年10月6日から8日までの川増し(増水)の折の出動記録を見せるように伝えた。開示請求しろと寝ぼけたことを言う。本日、下水に行き、消防の記録を元に究明しなければならない。書類は今書くので、直ちに手渡ししろと要求。すると、二、三日かかるとヨ。
 救命は消防の仕事。究明は「日本救護団」の仕事だ。火の出たのを消すのが消防、火のない所に火をつけるのが「日本救護団」だ。
 消防に、下水道から、この資料を請求させる。即、下水道に資料を引き渡せ、それとも、行政同士でも開示請求を必要とするのか?
 資料は下水道に渡った。
 何故、このように川増しによる、消防の出動記録を要求したか。それは、協議会に出した下水道の資料に疑問を感じた。床上浸水が24棟あると記されている。これが本当であるかの確認に出た。
 消防が説明した記録には、尻内矢沢近辺に16棟の床上浸水は確認すれど、河原木地区にはナシとあるからだ。また、平成16年度の台風21号と同様な降雨量、この年だけ床上浸水はあるが、他はない。何か、この記録に意図的なものを感じて調べ出した。
 下水道に十六時に出向いた。24棟の床上浸水の記録はと問うた。
○下長の3がそれだ
●住居が3、非住居が21、それで床上浸水が24か?
○そうだ。
●非住居とは何か?
○小屋だ
●小屋に床があるのか
○土間も床だ
●土間も床だとは愉快な話だ。土間は床下浸水だろう。それを床上に引き上げたのだろう。
○これは我々が分類したのではない。固定資産税課、市民税課、収納課が出動したものだ。その資料をもとに防災安全室が作成した資料から我々は床上浸水24と書いた。
●実数をごまかして、市議会議員をだましたのだ。
○そんなことはしていない。
非住居の数字をいかにも住居のように見立てた。消防の資料では尻内矢沢地区にこそ、ポンプ場が必要だが、それは河原木の後に建築予定、順序が逆だろう。積極的に市会議員をだましたのではないが、消極的にだましたのは間違いない。
 露呈したのは他の三課と防災安全室。これが、正月の断水に無能を露呈。再度、この室のありようを検討する。今日、22日は、固定資産税課、市民税課、収納課の三課の記録の確認だ。
 たった、三戸の床上浸水に60億円をかけるべきか?それも借金だ。平成五年からの記録をみても、他の年には床上浸水住居はない。それをいかにも重大事のように騒いだのは何故?
 誰がこの工事で、ポケットに金をねじ込むのか? 市民不在の大工事、こんなものに銭をかけるなら、床上浸水の住居をジャッキで持ち上げて、地盤をかさ上げしてやれ。そのほうが安い。どうだ?
 この工事の差し止め請求を裁判所に出すべきだ。さて、それを「日本救護団」がやるのか? それとも議員か? 議員諸君はだまされた数字を鵜呑みにする輩なのか? 市民のために汗を流すべきだろう。
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# by jpn-kd | 2009-07-22 08:18
水上勉 貧困について2 河出書房
最近ある新聞社が世論調査を試みたところ、都会の二DKに住むサーラリーマンの大半は、「中流家庭にある」と自慢したそうだ。自らを貧乏線上から、中流にひきあげているところに悲劇があると新聞は報じた。昔の五条橋下の番地のない人びとが吸った清澄な空気さえ得ていない上に、子供をあそばせる一坪の土地すらもっていない中流家庭がどこにあろう。高度成長の国は、つまり、このような錯覚を庶民に抱かせることによって大企業のマンモス成長をゆるしたとみてよいのである。したがって、河上流にいえば、娘に千金の帯の買える富者は、今日もひとにぎりの人数であって、また、その反対に、ひとにぎりの線下をみれば極貧者はいるのである。それらは、過疎地帯にとりのこされた老人夫婦、核家族の断絶で、養老院にゆくことすらならず、アパートに生活補助をうける老夫婦などの姿に見られ、奈落には、水俣に代表される公害病患者の家庭がある。
 つまり、新しい貧乏線下の貧者とは大企業の発展の恵みに浴さずに成長の犠牲になった者をいう。しかもこれらの家庭が十八年間も大衆の支持する政党に見はなされているのである。見はなされているという事実を考える必要がある。ここで、河上がいう、「人心の改造なくして、貧乏の根絶はありえない」。これさえ出来れば、粗織の改造はしなくても自然と貧乏はなくなると、いい進んだ河上の境涯が、今日を見ていてもはっきりと私にわかる。そして、そのことが四十年前の第二の課題であったにかかわらず、人文日に進んで、豊かな国となったはずの今日の国情に、新しくひびくのは、人心の改造という仕事が、如何に至難の業であったかを訴えているように思えてならぬ。つまり河上は、ここで、四十年のちの時代を透視しており、精神の貧困到来を示唆していたと思う。
 私も、じつは、寺院生活から脱走して、さんざん苦労もしたけれど、いまは、どうやら、この国の経済成長に沿うて、発展もしたマスコミの恵みをあび、中学卒の学力しかないながら、得手とする小説書きなる技術がようやく芽をふき、行商人生活をきりあげ、東京に住居をかまえ、さらに、信州の地に勉強部屋などもつという結構な富裕者になったことをここで告白しなければならない。そうして、妻とのあいだに、一人の障害児を育てているけれども、さして生活に困るということはなく、時には、生活必要品以上の贅沢品をも買い求めようとする妻と口論し、いさかいもくりかえしながら暮している。いってみれば、九歳までは、食うものも食えず、便所の落し紙さえなくて、藁をつかっていた身が、夢のような小説家になれ、雲上の生活にせりあがっているといわねばならない。
 私の人生にとって、いま貧困とは、何であったかと、思いかえしてみると、物的にめぐまれなかった生活は、生誕から九歳までの郷里での期間と、戦後早々の焼土での飢餓生活、約五年ぐらいであろうか。種々職業もかえて住居を転々としたが、いずれも、線上すれすれであった。このうち、戦後早々の五年は、国民の誰もが味わった苦労だから特別いうところはないにしても、九歳までの貧困のみじめだったことは、私にとっては運命的だったと思う。そうして、京都の寺院で、約十九歳まで修行した期間は、宗教生活であるから、精神的にも、物的にも貧困でありはしたが、これは、柳田国男のいう主家の教育によったのだし、私なりに充実していたかと思う。してみると、少年時に小僧をしたという特殊な事情でさえ、何のことはない、私にかぎったことではなくて、今日の私の年齢ならば、人それぞれ、貧苦の経験は、誰もがもちあわせてきているのではないかと思う。
 そこで、他の人はどうかしらぬが、私にかつての貧困があたえた、心の糧のようなものをさがそうとすると、それは多少ある。いま、多額な納税もする身になって、思いあらためてみるに、貧なる日々にあったところの私と、隣人とのつながりといったものが、いまは富むことによって皆無となった淋しさを感じている。洋服行商人時代に私は松戸に住んだことがあった。その頃は、収入は少なく、妻と子が辛うじて喰えるぐらいの線上貧乏人だった。住居は長屋で、隣人も多くいた。ある日、この長屋で、私の家にだけテレビが入った。隣人たちが夕方になるとやってきた。貧乏ながら、湯呑みの数もふえた。また、私は銭湯が遠かったので、風呂をいち早くつくった。すると、人びとはしまい風呂に入れてくれ、といってきた。ことわらずに入れた。すると、私の家は夕方から時には深夜まで、人のいない時はなく、茶のわかない時間はなく、ある一面ではわずらわしく思った日もあったけれど、総じて毎日はなかなかに、人との和気があふれ、人間的連帯があった。
 ところが、この家を越して、東京にきてからは、松戸の一角へは御無沙汰した。数年後に肪ねてみると、どの家にもテレビが入り、風呂が設けられていた。そのためか、道をあるいても、昔は戸をあけて、外をゆく人に声かけていた風景はなく、どの家も大戸をしめ、自分自分の家でテレビにかじりついている。つまり松戸の郊外の農村も、生活必要品の文化製品取得によって個人主義者がふえたのである。このことは生家のある部落にもいえて、さいきんは、盆や正月に帰っても、昔の仏教的な行事はお目にかかれない。八月十六日の迎火を焚く家も少ない。念仏の鉦もところどころでしか聞こえぬ。広場に提灯をつるして踊った「盆踊り」も十年前に廃止された。若者がいなくなったせいもあるが、老人夫婦と、子供たちが、みな大戸をしめて、家じゆうで、テレビにしがみっく団槃を楽しみはじめたからである。縁台将棋や、ウチワ片手の道ばたでの談合風景などほとんど見なくなった。貧乏線上の人びとは、片山内閣の置土産である農地解放のおかげで、小作田を自分の所有に出来て、昔から思えば中流に入ったのかもしれない。中流に入ると、
みな大戸をしめて、家の中でテレビを楽しむ文化生活者になった。このような人間関係の味けなさは、じつは、他人への無関心を醸成し、隣人が病気で死んでいても知らずにすごす家庭の出現をみたのである。物が豊かになったために、心を失ったといわれるケースは、このような共同体のくずれの中で、都会でも、農村でも人間が孤立してゆく姿としてながめられる。
 
生活保護者が孤独死した。八戸大杉平での話だ。二ヶ月も誰も知らなかったという。一億国民中流意識の中でも、置き去りにされた人々は厳然としている。上ばかり見ていると、足元が見えない。政党がしなければならなかった、貧困絶滅、古くて新しい問題なのだ。
# by jpn-kd | 2009-07-21 07:39
貧困について
水上勉 貧困について 河出書房
水上が面白いことを言った。貧乏も幸せも、皆、心が決めると。確かに幸せは、その人の心が決める。しかし、貧乏、貧困は厳然としてある。でも、絶対貧乏のように、ここからが貧乏と呼ぶ規定もない。
 現在の世、物資豊富の世でも、生活保護を受けなければならない、病気、高齢の要素は、どんなに時代が変ろうとも、変わらぬのが貧困だ。今、「日本救護団」を立ち上げて、多くの人々の貧困、困窮をみるにつけ、共に闘うことの意義を深める。人類があり続ける限り、こうした悩みはつきまとう。唯一の解決法は、万人に等しい死。しかし、生きるべきだ。行き続ける努力をするべきだ。それを尻押しするのが「日本救護団」。
さて、本論だ。河上は、私(水上)が育った天龍寺の近くの渡月橋畔臨川寺住職だった間宮英京老師が語った法話をもとにし、次のようなユニークな禅問答的理論をやった。英京老師の語った乞食親子の話はこうだ。
乞食はもと武士であったが、故あって落ちぶれて、子づれ乞食として、橋下の掘立てに住んでいた。ある年のみそかに、橋の上を大小さした武士が通る。と見ているうちに、向うから番頭ふぜいの男がやってくる。くだんの武士は急に顔つきをかえ、番頭に平身低頭して、借金の返済がのびていることを謝る。番頭は、みそかでもあるから、会ったが最期、どうしても、支払ってもらわねばひきさがらないという。武士は、ますます下手に出て、しまいには土下座して、番頭にかくいう。「武士ともあろう拙者が、恥も外間もなくこのように頭をさげるのだから、ゆるしてくれ」。これを橋の下から耳すましてきいていた乞食の子がいう、平ぜいは町人ふぜいめがと肩で風を切って歩いてゆく武士が、いったん債鬼の前へ出れば、たとえそれが番頭であっても、この平身低頭ぶりは何たるザマだろう。乞食の子は思いをふかめ、武士などという身のむなしいことよ。武士であるよりも、乞食であることの方が、どれだけのんきでよいかしれやしない。乞食の身には見栄も借金もない、物も貯えも必要ないから、泥棒も気にならぬ。風が吹こうか、雨がふろうが、屋根のもる心配もない。飢えては一椀の麦めしに舌づつみを打ち、渇しては一杯の泥水も甘露の思いがする、思えばこのような生活ほど、いいものはないわい、とひとリ言をいうのを、傍らでうたたねして聞いていた父親が、むっくと起きあがり「伜よ、そんな果報者にしてやったのは誰だと思う。親の恩をわすれるなよ」といったというのである。乞食の奴にも売る恩があったというあたりに、この話の醍醐味がある。
千差万様に生きる人間にとって、人間はその顔、躯つきがちがうように、精神内容もまたちがう。だから、その存在自体が民主主義なのである。幸福の次元も、千差万様であってよい。そのことを英宗老師は乞食の子に託していったわけだが、河上のいった貧乏根絶のための「人心の改造」とは、じつは、この五条橋下の乞食の子が拭き消し去ってしまっていたものではないのか。
 じつは、乞食親子は、はた目には貧乏と見えたけれども、内心で取得している充実の境界を誇っていたことは確かである。「冬は温かなり路傍の草、夏は涼し橋下の流れ」、この境地は、橋の上を歩く富者や、商人や武士には味わえない「富」なのだと老師はいったと私は思う。
 貧乏の家庭に生まれた者は、水上ばかりでなく、そこから抜け出したい、逃げたいと思うもの。しかし、運良く逃げ出したからこそ、懐旧の念で、昔は貧乏だったが、良かった、人々と触れ合うことができたと言う。水上は、その話を書いている。その話は明日のココロだ。続く。
# by jpn-kd | 2009-07-20 06:58
人の世は情けの貸し借り
水上勉・藤山寛美対談から 小学館
藤山 自分がむかし住んでいたところの記憶とか、小さい時分に経験したことは、どこか体の底に残ってるもんですな。
 水上 そうですね。ここで私のことをいうと、私の母方のじさまが舞鶴で、射的場の女と極道して、その女が死んで、二人の子供を連れて村へ帰ってくるんです。十年も留守しておった正妻のところへ戻ってきて、二人の子供を養えいうて、養わせるんです。鉱太郎、千太郎ちゅうんです。母の異母兄弟ですね。私ら小っちゃい時分から一緒に育ちました。
 私が九つで寺に出された時、この子たちが京都で下駄屋しておりまして、寺へ出てる私に、「つとむ、食え」いうて飴玉をくれたり、内緒で五十銭くれたり、時には一円くれたり、いちばんやさしかったのは鉱太郎でした。私が中学の時、小っちゃいのにゲートル巻かされてオイッチニイ、オイッチニイいうて、野外教練から帰ってくると、寺のわきでボテ箱にいっぱい直し下駄積んで待ってて、「おい、あぶり餅食いに行こ」いうて、今宮の方へつれてってくれるんです。今宮の赤い門のとこに三軒、あぶり餅屋が並んでいるんです。「おいでやす、おいでやす」いうて。雪がさんさんと降ってくる。寒かった。「つとむ、食え」いうて、あぶり餅食わしてくれた。
 若狭から、生みの親やおっさん(和尚)は来てくれたことがない。血縁ということも多少はあるけれど、九つから寺に小僧に出てる子に情けをかけてくれたのは、この鉱太郎と丁椎してた千太郎でした。村からはじき出された妾の子でしたが。こんなわしに明るい小説書けいうたって無理やわね。人情ちゅうものがどこにあるかいうのを小説で探ろう思うと、そういう人たちを掻き集めてこなけりゃあ、自分の体験に合わんいうところはあるでしょう。そういうことがいっぱいあるんですよ。
 ついでにいうと、うちのじさまは、最後は村の仁丹売りでした。仁丹売りいうのは、仁丹が十粒ほど入るように穴が窪んでいるブリキ板を持ってるんです。信玄袋に仁丹が入ってて、そのブリキ板を信玄袋に突っ込んで仁丹を掬うと、いっぱい掬えてもサラサラと袋の中へ落ちてしもて、穴の分だけ、十粒だけ残りますねや。それを三角の紙袋に入れて、ハイ、いうて一銭で子供に売るんです。これから文左のじさまと娘(私の母)が下駄直しの店を開くから、大人を呼んで来いいうてね。うちのおっ母んは十六で京の下駄屋の奉公から戻って、村の辻々で下駄直しをしてました。じさまは、女に死なれて没落して、十年も家を出て、二人の子供を連れて戻ってきて、その子供を正妻に養わせたものやから、村中から総スカンでした。
 そういう家でしたから、うちのおっ母んもかわいそうでした。生きてる間にええ目したというたら、松尾さんに詣ったぐらいと、私を小僧にやったお蔭で、京都の相国寺ヘ一遍来たかなあ、そのくらいのことで、どこへも出ずじまい。
 そのように私は偏った道やった。寺を逃げてからも乞食みたいなことしてたし、その頃に見たものが、いま、いちばん大事なものですね。学問しなかったが、自分で言葉を編み出していかんならん商売に入った。そうすると字引はどこにもない。足許のこれなら信用できるということを拾う作業しかないですね。だから、マンネリだといわれます。「水上節」などというてね。けど、節も持たん人もいます。それしか生きようがない。そんなもん人から借りてできるならよろしいけどね。大学行ったら貸してくれるかって聞きたい。
 言葉ちゅうもんは、手前の腹から出る。嘘も誠も口はひとつ。ずいぶん長い間、間違うたことばかり拾うてたけど、間違いのないもんを拾うのがわしの道やと思うて、ようよう何とかやってきた。私は、あなたのお芝居も文学でいえばあなたの私小説だなあと思いながら拝見しました。生きてこられたあなたの眼差しちゅうのは、大阪の春団治を受け継いで、もちろん天外さんも受け継がれたでしょう。破れかぶれなんだけど、背筋が伸びているんですよ。ピンと背筋が伸びてる。あなたが春団治を演じていると、それが感じられます。破れかぶれなんだけど整うているんです。
 藤山 八方破れなんですけどね。
# by jpn-kd | 2009-07-19 09:10


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