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なはしのはなし119 沖縄のくすぶり続ける問題4
凄惨を極めた地上戦が終わった沖縄は、収容所での生活が待っていた。米軍は、有刺鉄線を張り巡らした仮収容所を各地に設置し、民間人収容所と軍人の収容所を分離。
米軍は、最低限度の食糧、衣服、テントなどを与えたが、十分ではなく、栄養失調やマラリアで死亡。収容所で離れ離れになった肉親の安否の情報を交換。
収容所では、演芸会やスポーツ大会なども催され、組踊、沖縄芝居など米軍のパラシュートと紐と空き缶を利用してカンカラ三線(簡易 型の三線)を作り、自分たちの文化を再確認。
米軍の上陸地点であった読谷山村では、上陸とほぼ同時に米軍に収容された人々がいた。夫を防衛隊にとられ、幼い子どもをかかえた女性や北部(山原)への避 難はとても無理だという老人たち、それに米軍上陸を目前にあわてて避難を始めたが、直ぐに捕らえられた人々、各地のガマ(壕)などから生きた残った人々 等々。それらの人々は都屋、楚辺等に収容された。
各収容所(地区)では、米軍によりメイアー(Mayor・市長)、CP(Civilian Police・民間警察)が任命され、収容民への物資の配給、 住居建設作業の手配、軍命令の伝達、収容地区内の治安維持などに当たった。また、一般の者は、畑に残った作物の収集や残存家屋の解体、移動予定地での住宅 建設などに当たり、特に男子に限り死体の処理やDDT散布などの作業に駆り出される者もいた。
 軍作業は、米軍が収容所にいる人々に対して道路工事や荷おろしの作業をさせたことが始まり。1946年に賃金制になるまで、労務の対価は食料やタバコ1ボールなどの現物支給。
米軍は本島上陸と同時にミニッツ布告第1号・2号を発布し、米軍政府を設立。占領下にある南西諸島において、日本政府の行政権及び司法権を停止。
米軍は日本軍が建設した読谷(北)・嘉手納(中)飛行場などを中心に、必要な土地を好きなだけ囲い込み、軍用地を確保。人々の故郷は基地の金網の 向こうに消え、収容所から帰る土地はなくなった。住民は米軍が居住を許可した僅かな土地で再出発。
 米軍上陸の地となった読谷村は、沖縄戦や本土上陸作戦に備えた米軍の軍事物資の陸揚げ場所となり、村全域が米軍基地化された。
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by jpn-kd | 2015-06-21 08:51 | 行政ネタ
なはしのはなし118 沖縄のくすぶり続ける問題3
避難民
家主の許可も受けないでみんな自由に他人の家に入っていました。「私の家だからみなさんは出て下さい。」とも言えなかったですよ。戦争中のことで すから。私の屋敷に七〇名ほどいました。家の中は戸もなくあけっぴろげでした。寝るのも庭先に寝ました。屋敷は避難民が一杯で歩けない程でした。炊事は各 自でやっていました。
古知屋全体がそうで、家の近くの御嶽の周囲も全部避難民で一杯でした。このような状態は約一か月ぐらい続いたと思います。
 ところが、私たちは、このまま部落にいては危ないということで再び、古知屋のワー山に避難しました。しかし、米軍が飛行機でびらをまいてからは長くは山 にいなかったです。びらには「山にいては危ないから早く出なさい。」と書いてありました。それで、山から下りる準備をしていたら、アメ リカ兵二名が鉄砲をもって来るところでした。丁度よかったです。家に向っていたので彼らは何もしないで、タバコ一本くれて、「パイパイ」と言って帰してく れました。二頭の馬車に家族と親戚も一緒にして一〇名でした。馬車には着がえと、米、芋とかの食料を積んでいました。
終戦直後の生活
 私は山から下りて、取り調べを受けて米軍の捕虜になりました。宜野座大 久保の金網(収容所のこと)に一週間入れられました。作業はアメリカーたちの便所掘りでした。しかし、一週間してから作業場から逃げて来ました。真昼に、 点呼を受けた後、たった一名で逃げて来たのです。他の人にも一緒に逃げようと呼びかけたのですが、聞かなかったので自分だけ逃げて家に帰ったのです。その 後、呼ばれて罰されるということもなかったです。
  その後、しばらくしてから収容所の建築主任に命ぜられました。避難民のための避難屋づくりのためです。約二〇〇〇名働いていました。人口は古知屋に二万名 程いましたが、働けるのは二〇〇〇名しかいなったです。ハーフーヤーと言って一〇〇メートルぐらいの長屋を作りました。材木は、山から木を伐採して来まし た。屋根は木の葉をかぶせました。
場所は土地が広いということでほとんど開墾地でした。その時の食事は作業後にもらう、おにぎりでした。それもお昼だけで朝夕はなかったです。お汁 は缶詰の空缶を持って行きそれに入れてもらいました。しかし、おにぎりは作業した人の分だけしかなく家族の分はなかったです。ですから家族は近くの畑で芋 をあさったり、木の葉やチーパッバー(山ぶき)の茎も食べました。桑の葉は一番おいしかったです。
しかし、このような状況は長くは続かなかったです。しばらくすると配給がありました。米軍からの米や缶詰がいっばい配給されました。
 栄養失調で死ぬ孤児たち
  古知屋には、中頭や島尻から毎日のように栄養失調の乳児や子供、年よりが運ばれて来ました。現在の許田商店の道路を越えた向かい側に診療所がありました。 医者も看護婦もいました。彼らは運ばれて来た時から栄養失調で、目ばかりぎらぎらして、死にかけている人たちばかりでした。それで、運ばれて来てから二、 三日したらほとんどが死んでいったのです。年よりもいましたが、一、二歳の乳児や四、五歳の子供も多かったです。
戦争孤児たちで、戦争で親とはぐれたり、親をなくしたりして身寄りのない子供たちがほとんどでした。病気とか、けがをしたとかではなく、ほとんど栄養失調の子供たちで、ヤーサ死(餓死)で非常にかわいそうでした。

米軍は住民を追い出し、テント暮らしをさせ、その間に軍用地を拡張する
住民の同意も不同意も関係ない
米兵の血を流してもぎとった沖縄、勝手にして何が悪いが論理
まて、
国際法がある
しかし、戦勝国は強姦・殺人も問われないように何でもしたい放題
民主主義国家アメリカは聞いて呆れるとはこのこと
では、どんなひどいことを住民に強いたのか
これを示す
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by jpn-kd | 2015-06-20 00:06 | 行政ネタ
沖縄県のはなし 1 沖縄県地域防災計画にもれ
全国を回り災害時要援護者救護を調べているが、国の計画から漏れているため、ここ沖縄も同様な誤り
沖縄防災会議編の最新版を入手
それにも災害時要援護者については一行も一句も書かれていない
手上げ方式で助けて欲しいと市町村に届け出ているにも関わらず、それを把握していない
この担当は県の福祉政策課
ここに県内市町村の要援護者の一覧表提出を求めたがナイ
把握していない
助けてくれという人を置き去りにするのか?
かつて、鹿児島県は未曽有の土砂崩れに見舞われた
そのとき独居老婆が家に取り残された
それを背負い救出したのは地元の消防団であった
これはNHKの「プロジェクトX」でも放映された
DVDで見ることができる
日本がバブルがはじけ、一億総国民が経済に対して自信を失った
その時、捨てたものじゃない
日本人には魂があると叫び続けたのが、この「プロジェクトX」
真剣に、ひたむきに置かれた立場を一歩たりとも逃げるのではなく立ち向かった人々をシリーズで追った
それに励まされた
消防本部に行き、この消防団員のDVDを見るように伝えた
消防長以下、みなが見た
災害時には常備消防は動けない
動けるのは消防団だ
地域を知悉する消防団員は日頃地区の要援護者を把握する
だから、背負って救助した
が、
この要援護者のリストが那覇市は消防本部が押さえていて、消防団に渡っていない
また、
沖縄県は県全体の要援護者の把握もできていない
沖縄にも大地震があった
必ず来る災害
それは平時の備えが大事
沖縄県職員は危機意識を持て
県民のために汗を流せ
また、消防団の定員とその充足率も把握していない
こうしたやる気のない職員がいる沖縄県
住民から税を搾り取るのが仕事ではない
住民に何が出来るか
何をするべきかを考えろ
県民住民は税を吐き出すカイコではない
住民ありき、県民ありきの姿勢なくしては県の存在は不要だ
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by jpn-kd | 2015-06-19 05:39 | 沖縄
なはしのはなし117 沖縄のくすぶり続ける問題2
 勝者米兵の強姦・強盗・殺人
 沖縄を占領した米軍は「解放軍」のように宣伝したが、やったことは強姦、強盗など鬼畜のような蛮行だった。沖縄戦さなかの45年5月には、旧首里市役所 職員古波蔵保知氏(38歳)と2人の男性が国頭の山中の避難小屋の付近で米兵に腹を切り裂かれて殺された。古波蔵氏は首里の避難民を引率して疎開中、若い 女性が米兵に追われて逃げてきたところに直面した。米兵はいったん引き返したが、その後約30人の武装米兵が避難小屋を襲撃。そして古波蔵氏ら3人の男を 河原に引っぱっていき、自動小銃で射殺。米兵が引き揚げたのち、同じ小屋に避難していた婦人が河原におりてみると3人は腹を裂かれていた。
 米兵が、壕に隠れていた男たちを追い出し、救うようなふりをしてタバコを与えて背後から射殺したり、隠れていた穴から飛び出してきた国民学校の生徒を射 殺したことも目撃されている。食糧確保のため離島に渡った若い娘が米兵に追われ射殺されたり、妻子に乱暴しようとした米兵をいさめた夫を米兵が連れ出して 射殺したり、米兵が来るまえに女性を逃がしてやった村人を正座させたまま射殺するなど蛮行のかぎりをつくした。本部半島のある部落では海兵隊上陸直後に部 落中の婦人が米兵に襲われた。男が戦争にかり出され、女、子ども、老人しか残っていないところを狙った蛮行だった。
 米兵の婦女暴行事件は戦火がやみ、米軍の支配下におかれてますますひどくなり、多くの混血児が生まれた。夜になると鉄条網がはられ逃げられない収容所を 米兵の集団が襲って「娘狩り」をくり返すため、そのたびごとに酸素ボンベを打ち鳴らして女性たちを逃がす状態だった。米兵から襲われて殺されたり、混血児 を産まされた証言はきわめて多い。
 45年7月時点で合計約32万人余の沖縄住民と旧軍人などが米軍政下に入った。軍人などは捕虜収容所、住民は難民収容所に収容。収容所では入所と同時に殺虫剤を散布され、新しい衣服に変えさせられた。それは米兵を伝染病から守るためだった。
 そして必死に戦場を生きのびてきた住民にわずかな食糧しか与えず、負傷者や栄養失調者にもまともな手当てをしなかった。しかも重病人以外は自分の食糧確 保のための農作業と米軍用道路や基地建設工事にかり出しこき使った。一般住民も米兵のきびしい管理下で「捕虜」あつかいされ、劣悪な衛生環境のなかで多数 の死者が出た。浦添村民の収容所では312人が死亡したが、それは浦添全体の死者の1割にのぼった。
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by jpn-kd | 2015-06-18 00:02 | 行政ネタ
なはしのなはし116 沖縄のくすぶり続ける問題1
沖縄戦で日本から見捨てられ多くの犠牲を出した
その沖縄戦がどれほど、沖縄人の心と体を傷つけたか
沖縄戦はこうしたものだった
沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月20日ないし6月23日に終了した。アメリカ軍の目的は日本本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営がアメリカ軍に大打撃を与えて戦争継続を断念させる決戦を志向したのに対し[2]、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦[注 1]に向けた時間稼ぎの「捨石作戦[3]」(持久戦)を意図するという不統一な状況であった[2]。第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を基本方針として戦い、特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となった。海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦「大和」などの日本海軍残存艦隊と連合軍艦隊の間で海戦が行われたほか、飛行場制圧のため陸軍空挺部隊から抽出されたコマンド部隊「義烈空挺隊」も投入した反撃が試みられた。上陸後2ヶ月経った1945年5月末に連合軍は首里を占領し、日本軍は南部に後退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、掃討戦は終戦まで続いた
日本側の戦死者は24万4000人余にのぼった。このうち15万人が民間人で、いまも山野に数千体の遺骨が埋もれたままである。
 米軍は沖縄戦に地上戦斗部隊の第10軍18万3000人と海軍部隊などをふくめた総勢55万人と艦船約1500隻を動員した。その目的は「沖縄奪取、基 地としての整備、沖縄諸島における制空、制海権の確保」。最初から沖縄全島を占領し刃向かうものは殺し尽くす作戦だった。
 3月23日に沖縄大空襲をやった米軍は、4月1日に沖縄本島へ上陸作戦を開始。空母40隻、戦艦20隻を中心とする1500隻の英米連合軍艦船で包囲 し、猛烈な艦砲射撃と1600機におよぶ空母艦載機で銃撃、爆撃した。上陸準備の艦砲射撃を7日間つづけ、沖縄本島の中部西海岸に上陸するまえには南北 13㌔の海岸線に約10万発の砲弾を撃ちこんだ。それは90㍍4方に25発以上というち密な事前計算にもとづくものだった。
 米軍は4月19日、与那原に大量のナパーム弾爆撃(爆発すれば50㍍4方を火の海にする)を加えて焼き尽くし、長い歴史を持つ首里も1日で瓦礫にした。 沖縄にわずか2カ月足らずで51万発の艦砲弾と177万発の野砲・重砲弾を撃ちこんだ。1日7万5000発以上の砲弾の嵐のなかでは弾にあたらない方がま れで、生き残ったものが「艦砲の食い残し」といわれるほどだった。
 沖縄本島に上陸した米軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。ここは丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦斗員まで殺害した。
 嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺した。前田丘陵四日間の戦斗は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。
 国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここは米軍司令官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。国吉で捕虜になった住民のうち 男子は全員銃殺された。南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼった。
 米軍は沖縄戦ではじめて火炎放射戦車を使い、日本軍の塹壕や横穴陣地を焼き尽くした。丘陵のトンネル陣地は地表面を占領して、入り口から発煙筒をうちこみ、煙が出てくる穴という穴に梱包爆薬を投じてガソリンを流しこむ「馬乗り攻撃」を加えた。
 中部の住民十数万人は戦火を逃れて南部に逃げたため、沖縄南部は30万人の住民と日本軍が集結していた。これに米軍は海上から艦砲射撃、地上では火炎放 射器で壕を焼き払った。さらに南端の喜屋武岬にいたる原野のカヤやススキのうえにガソリンを空からまき、その上に焼夷弾を落とし焼き殺した。南部では1坪 あたり20発ぐらいの砲弾を投下した。沖縄本島の住民を3人に1人の確率で殺し、島尻に逃げた人人のなかでは2人に1人が命を落とした。
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by jpn-kd | 2015-06-17 00:21 | 行政ネタ
なはしのはなし115 オナガの「新基地は作らせませんよ」より凄い運動4
ガス弾で両親を失う
                佐久本(女性 ・二十二歳)
首里の自然壕内で

 わたくしは、戦争前、赤田町女子青年団の世話係のような役割りをしていましたが、十九年に首里市役所に臨時で入り翌年五月首里が艦砲や空襲でやられた時には、現在崎山のテレビ塔のあるあの下の自然壕にいて、首里城の焼けおちるのをみました。両親は壕に投げこまれた米軍のガス弾で死亡。

わたくしは母を抱いて倒れていたのを、同じ壕の人々に引き離されて、助けられ、崎山の壕の近くで捕虜になりました。捕虜になった後は、宜野湾の野嵩の収容所で看護婦として働き、豊見城の真玉橋の収容所で保母に、また首里に移住が許されてからは、赤田町幼稚園の保母をしました。

 お彼岸のごちそうもできあがってさあ出勤しようかというとき、首里は突如、空襲にあいました。日にちはとうしたことか、憶えていません。わたくしは、ご ちそうのお重をかかえると、父のいる家に走り、親せきの人と一緒に父を壕に移しました。走っている時、敵機が自分を狙っておいかけてくるようにみえて、こ わくてなりません。走りながら、首里城が焼けているのがみえました。

 首里の壕に残る

小満茫種の季節で壕の中に雨が流れこみ、弱かった母はとうとうゼン息になりました。家は幸い焼けなかったので、わたしは空襲の合間に走っていって みそや米を取ってきました。しかし四月半ばの艦砲の時には首里はほとんど焼けおちてとうとう自分の家もすっかり炊けてしまいました。ひどい地響きで、もう おしまいだ。木っ端みじんになるのだと、わたしたち十二人、抱き合って泣き叫びました。


 ガス弾で父母死す

 あちこちで敗残兵を捜しており、わたくしたちの壊の入口には、兵隊さんたちが使った日本軍のスコップ類が置いてあったので、何の呼びかけもなくいきなり ガス弾を入れられました。五月三十日か三十一日で、ロ-ソクをつけて奥の方でアルバムをみて楽しんでいる時でした。ゴホゴホせきこんで、今の音なんだった ろうと言ううちに、また投げこまれて、三回くらい煙があがり父母は死んでしまいました
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by jpn-kd | 2015-06-16 07:00 | 行政ネタ
なはしのはなし114 オナガの「新基地は作らせませんよ」より凄い運動3
8万5千人の大集会は何を要求したのか
何故こうした運動になったのか
ここに沖縄がくすぶり続ける原因がある
沖縄だけが地上戦を経験し、沖縄はアメリカに組み敷かれた
そして、米軍軍政下におかれ本土復帰は戦後23年目であった
23年も日本政府は沖縄を捨て子にした
このことが日本人に十分伝わっていない
だから沖縄県人だけが苦しみ続けていると訴えている
米軍基地の外で起きた事件を地位協定のため、裁判権が沖縄にはないという事実
こんなバカな話はない
それを見殺しにしてきた日本政府
特に河野洋平はひどかった
この20年前の騒動でも、河野は見直しは必要ないと言った
地位協定の組み換えを要求するべきだ
殺人事件が起きても裁判権がないというだけで、犯罪人がアメリカに逃げる
沖縄県民は犬猫ではない
立派に人権を持つ
沖縄の人民は日本国憲法の網がかからないのか
そんなことはあるまい
安部首相は沖縄に来て居住すれば、幾多の矛盾に気が付くはず
置き去り、あるいは捨てた沖縄をもう一度考え、基地負担に耐えられないという言葉にどのように対処できるかを考えるべきだ
なんとかしなければならない
何が出来るのか
何をすることから始めるのか
それを沖縄戦から紐解いてみる
アメリカ軍を上陸させ、持久戦に持ち込む作戦
既にサイパンが陥落し本土にB29が飛行可能
次に硫黄島がとられ、ここの飛行場からB29を守る戦闘機の基地をアメリカは確保
既に制空権はアメリカに握られていた
サイパンが陥落した時点で日本は降伏すべきだった
が、日本人にそれをする勇気がなかったために犠牲者を増やした
まともな思考回路が日本人にはなかったのだ
ために昭和20年3月10日に大空襲で本所を中心とした下町で一晩で18万人が焼き殺された
焼夷弾を開発し、大型の爆弾から小分けにされた爆弾が飛び出し、ガソリンを満載し着地すると火災を発生する仕掛けだ
アメリカはベトナムでも同じことをした
上陸する前に徹底的に相手を焼き尽くす
米兵の地を流す前に、相手の血をいかに流すことに知恵を回した
沖縄も空襲を受けた
さらに上陸し毒ガスを使用
なまなましい証言がある
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by jpn-kd | 2015-06-15 08:15 | 行政ネタ
なはしのはなし113 オナガの「新基地は作らせませんよ」より凄い運動2
丁度20年前、黒人米兵3人による小学生拉致輪姦事件
沖縄の有力紙「琉球新報」が小さく報じた事件が大きな輪を作り出した
もう、米兵によるこうした事件はこりごりだ
世論が動いた
沖縄県知事も重い腰を上げた
沖縄独特の構造にメスを入れる
それをマスコミが取り上げ、拉致輪姦事件は基地反対運動へと大きく転換した
その流れを「琉球新報」は記事を集め冊子を製作、それは4冊にのぼった
もう嫌だ
何故我々沖縄人だけがこうした米兵による非人道的な行為を受けなければならないのか
何故基地がいつまでも居座るのか
日米安保とは何か
我々は基地に出て行けと叫ぶ
と、8万5千人が集会
出て行け基地
これに対して外務大臣の河野はずるかった
日米地位協定の見直しを言わない
時の総理はなにも出来ずに無能を曝した村山富市、阪神淡路の大地震でも、自衛隊出動すら命じられない
こんなバカな男が一国の総理であったことが恥ずかしい
今の日本人は恥という言葉を忘却した
いかにバカが政治家に多いか
そして、本土が基地を受け入れないかぎり、沖縄人の中には鬱積した憤懣がいつでも吹き出そうと好機を待つ
それが、今回のオナガだ
が、
この男も無知だ
策略を持たない愚かさだ
20年前の知事は太田
この男には抵抗の二字があり、それを県民は指示
ところが、
オナガは自分が県知事という職責を得たことで酔った
そして、出来もしないことをいかにも出来るというペテン師と同じ手口を使う
これは成就しない
が、太田と違う手が残されている 続
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by jpn-kd | 2015-06-14 08:09 | 行政ネタ
なはしのはなし112 オナガの「新基地は作らせませんよ」より凄い運動があった
1995年(平成7年)9月4日午後8時ごろ、沖縄のキャンプ・ハンセンに駐留するアメリカ海軍軍人でいずれも黒人のA(22)、アメリカ海兵隊員B(21)、C (20)の3名が基地内で借りたレンタカーで、沖縄本島北部の商店街で買い物をしていた12歳の女子小学生を拉致した。小学生は粘着テープで顔を覆われ、手足を縛られた上で車に押し込まれた。その後近くの海岸に連れて行かれた小学生は強姦され、負傷した。
反基地感情の高揚
沖縄県警察は、数々の証拠から海兵隊員の事件への関与は明らかであるとして、同年9月7日に逮捕状の発付を請求した。しかし、日米地位協定によれば、被疑者がアメリカ兵の場合、その身柄がアメリカ側の手中にあるとき、起訴されるまでは、アメリカが被疑者の拘禁を引き続き行うこととされていた[1]。したがって、たとえ逮捕状が発付されても、日本側捜査当局は起訴前には逮捕状を執行できず、被疑者の身柄を拘束して取調べるという実効的な捜査手段を採ることもできなかった[2]。
このような米兵の特権的な取り扱いによって、事件の捜査に支障を来していたことから、沖縄県民の間でくすぶっていた反基地感情が遂に爆発し、沖縄県議会、沖縄市議会、宜野湾市議会をはじめ、沖縄県内の自治体において、アメリカ軍への抗議決議が相次いで採択された。同年10月21日には、宜野湾市で、事件に抗議する県民総決起大会が行われ、大田昌秀沖縄県知事をはじめとする約8万5千人(主催者発表[3])もの県民が参加した。これらの動きは、沖縄に集中する米軍基地の整理・縮小や、日米地位協定の見直しを求める訴えが高まるきっかけとなり、沖縄県知事も政府に対して強くその実行を迫った。
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by jpn-kd | 2015-06-13 07:05 | 行政ネタ
なはしのはなし111 オナガせめて本土並みの年金制度を要求せよ
高齢者が困窮する沖縄、この根源は47年前に本土復帰をしたときから始まっていた
そして、歴代知事はこの解決をすることなく放置
ために高齢者が食えない状態が続く
制度からもれた高齢者の救済せずに、新基地は作らせませんよ
そんな寝言たわごとよりも現実を直視し、高齢者擁護、救済にあたれ
それが、沖縄を直視することで、反り返ったドブ板のように、下からは水気にあたってブヨブヨ、上からは天日でカラカラ、ために反り返るが、県知事になり功をあせって足元見ずに天を仰いで辺野古反対は愚か
たしかに基地問題は大事ではあるが、生きてる沖縄住民の苦労は基地問題だけではない
沖縄振興資金、これをオナガは親からもらう特別な仕送りと称したが、これなくして沖縄は存続しえない
だから、隷属し基地を受け入れよとは言わぬ
主張すべきはしろ
ただし、正当な論理の裏付けなくして月光に吠えれば、ただむなしく己が県知事という権限を喜ぶ小児と同じで、持ちつけぬ玩具を手にして乱舞するに似たり
まず、足元を見よ
困窮する老人救済をしてから、天に向かって吠えることだ
なんでも
いい加減にしてきた男、オナガの後遺症は那覇市役所至るところにある
人は財だ、その財を活かすことのできなかったオナガに、県を託せるのか
明治期第二代沖縄県令として赴任したのが上杉茂憲、山形米沢藩主の長男、当時人口は沖縄37万人、当時の日本全体の人口が3千7百万人、比率としては現今とさほど変化なし
上杉は言及する
各間切の吏員は多いところは百数十名、少ないところでも数十名、むだな職員は必要人員の数倍を占めている
数万円の俸給を民費にかけ、数多い吏員がことごとに民から暗々裏に搾り取るものが多く、人民は日夜勉励して余裕を持とうとしてもただちに吏員に絞られてしまう
吏員は毎七月と十二月に付け届けを人民に要求し物品を徴収する
吏員の畑は人民を使用し耕作させ、下男下女も使役する
租税や民費を徴するときも必ず余計に集める
それは、人民が文字を知らないことにかこつけているからだ
吏員たるものはあらゆる物を人民から絞り取り、一銭の蓄えも許さないと考える旧弊を打破しない限り沖縄の人民は永遠に助かることはない
オナガはこの上杉県令の沖縄巡回日誌を知らぬだろう
時代は確実に流れ、その時代の人民の要求に応えるのがオナガの使命だ
天ばかり向いて吠えずに足元を照らせ
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by jpn-kd | 2015-06-12 09:03


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