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政務調査費で仙台市を提訴
仙台市議会議員に支給された平成20年度の政務調査費について、「実費と支給額に差があり違法だ」などとして、市民グループが奥山市長を相手取り、市議会の5つの会派にあわせて2800万円余りを返還させるよう求める訴えを仙台地方裁判所に起こしました。訴えを起こしたのは「仙台市民オンブズマン」です。市民オンブズマンは、平成20年度に
仙台市議会議員に支払われた政務調査費について、違法な支出が見つかったとして、ことし3月、住民監査請求をしました。
請求を受け、仙台市の監査委員は4つの会派に支出された450万円について    「不適切」だと指摘し、指摘を受けた会派は、これまでに450万円全額を市に返還しました。しかし、市民オンブズマンは残る支出についても不適切なものがなお、含まれているとして、奥山市長を相手取り、市議会の5つの会派に支給された2800万円余りを返還させるよう求める訴えを、25日仙台地方裁判所に起こしました。市民オンブズマンは、訴えの中で「出張にかかった実費と政務調査費の支出に差額が存在し違法だ」などとするとともに、記者会見で「政務調査費を使ってポケットに金を溜め込もうと考えている人がいると思わざるを得ない」と指摘しました。
これについて仙台市の奥山市長は「まだ訴状が届いていないので現時点でのコメントは差し控えたい。訴状が届き次第、内容を精査の上、適切に対応していきたい」としています。
by jpn-kd | 2010-06-26 18:46
新規入団者
昨日はほとんど外出せずに作業をしていた。訪問者があり、入団希望とのこと。定年退職をして、それでも何か社会貢献をしたい。それで、「日本救護団」への入団。ブログ見ています。中国残留孤児の話を読んで涙しました。日本に騙されて満洲開拓団に多くの青森県人が移住した。良かったのは一時で、あとは逃避行。年寄り子供は置き去りになった。いつの時代でも、弱い者は犠牲になる。今、この平和な時代でも同じだ。
 最近はブログに活動結果を載せないが、生活保護受給に動く、側溝問題解決など、ささいな話でも「日本救護団」は街宣車を走らせ、嘆きを聞く。
 生活保護も高齢者で、年金受給額が少なく食えない人の分は、違う形での支給が望ましい。国もこの解決策を考慮中のようだが、ここまで高齢者が長生きするとは思っていなかったのだろう。国の基本的考えは姥捨て山。ある程度年をとったら、適当に消えろと言うのだろうが、増えた老人の十六%しか介護保険は使っていない。
 大部分が元気者、これら年寄りも財産、元気な年寄りが核になり、ボランティアで高齢者相互の安否確認をする。一日何も話をしないとボケる。パソコンを使える人は図書館のボランティアで、貸し出し本の案内入力するなど、仕事は山ほどある。
 それにつけても、新規入団者から教えられた。団員を増強して、市会議員を立てましょうと。今東光って坊主がいた。中尊寺の住職だった。きかないジジイだったが、それが、仏教は一人では保てない。何人かがいるとずるをして、今日は休もうとしても他人の眼があり休めない。それで仏教は保てると言った。名言だ。最近、変なことを始めて、この半年死に物狂いでやっていて、ブログも疎かになっていたが、新規入団者の言葉に励まされた。仏教は一人では保てない。
 同様、「日本救護団」も多くの人に支えられている。団費五千円、世のため人のために使わせていただきます。ありがとう。
by jpn-kd | 2010-06-26 05:30
市職員 職場で覚せい剤使用か
京都市の職員2人が覚せい剤を譲り渡したり隠し持ったりした疑いで逮捕された事件で、警察が22日、職場を捜索したところ、1人の勤務先のげた箱からアルミはくやストローなどが見つかり、警察は、職場で覚せい剤を使用した疑いがないか捜査を進めています。京都市の職員、兼崎哲章容疑者(32歳)は、覚せい剤の粉末0.8グラムを5万円で知人に譲り渡した疑いで、やはり京都市職員の嶋崎裕康容疑者(44歳)は、自宅で覚せい剤を隠し持っていた疑いで、いずれも21日、警察に逮捕されました。
調べに対して兼崎容疑者は容疑を否認し、嶋崎容疑者は、認めているということです。
この事件で、警察はきょう午前、京都市北区と伏見区の2人の勤務先のまち美化事務所をそれぞれ捜索しました。
警察によりますと、このうち、兼崎容疑者の勤務先で兼崎容疑者の下駄箱にあったきんちゃく袋の中からアルミはくやストロー、それにライターなどが見つかり、押収したということです。
警察ではこれらは覚せい剤を使用する際に使われた器具だとみており、警察は、兼崎容疑者が職場で覚せい剤を使った疑いがないか捜査するとともに、2人の職員の関係や、覚せい剤の入手ルートを調べています。

NHK全国ニュースから
by jpn-kd | 2010-06-23 10:53
政務調査費 不適切な支出
香芝市議会の議員に支給されている政務調査費について、市の監査委員が行った監査で、個人で借りている事務所の賃料などの、不適切な支出を指摘され、議員11人があわせておよそ540万円を市に返納しました。
香芝市の監査委員は、議会側からの発案で、平成19年度と20年度に、議員に支給された政務調査費の使いみちについて、ことし3月から4月にかけて監査を行いました。
政務調査費は、議員が政策の調査や研究に充てる経費とされ、香芝市の場合、議員1人に対し、月額にして5万円が支給されています。監査の結果、議員が個人で借りている事務所の賃料のほか、いすや机といった家具類の購入などに、政務調査費が使われていたケースがあり、必要性が疑われる不適切な支出だと指摘されました。
不適切とされた支出はあわせて500万円余りで、2年間に支給された総額のおよそ40%にあたり、11人の議員が、遅延金をあわせておよそ540万円を市に返納したということです。
監査の結果を受けて、香芝市議会は、政務調査費の使いみちについて基準を厳しくしていきたいとしています。
香芝市議会の関義秀議長は、「議会として市民に疑念を持たれるような税金の使い方はやめ、議員の資質を高めていきたい」と話しています。

NHK全国ニュースから
by jpn-kd | 2010-06-23 10:50
日舞泉紫峰師匠9
先生は日舞の師匠がどのような仕事か知らずに、そうかと応えた。それは教室での出来事で、紫峰さんは物静かな、おだやかな子だった。明るい性格ではあるものの、何処かに沈んだ気持ちがあったのだろう。
今の紫峰師匠からは想像も出来ないが、置かれた境涯がその顔を明るくもし、暗くもする。
 師匠には漠然とした将来への不安があったのだろう。先生は手踊りくらいのことしか、踊りについては知らなかった。日舞の師匠とは一般的な生計を立てていけるものなのだろうかと疑問に思った。踊りの世界は一般人のものとは大きく異なるので当然のことなのだ。
 母の枕元で紫峰さんは先生に自分の将来への決意を示した。そう言わなければ自分が駄目になる、押しつぶされると子供心に思ったのだろう。
 先生はその時、どのように返事をされたかは覚えておられない。
きっと「そうか、頑張れよ」と仰ったのだろう。教師という職業は多くの子供を見て、その中にキラリと先るものを見いだし、それを大きく育て、華の咲くのを楽しみにする園芸家のような所がある。
肥料をやり、悪い芽を摘まなければならぬ所もあるが、子供はそれぞれの人生に果敢に、そして積極的に取り組んでいく以外に方法はない。教師はその人生の僅かな時間をじっくりとたっぶりと見届けさせて貰うのだ。
 そして、巣立って行く、雄々しく、あるいは弱々しい後ろ姿をいつまでも覚えている。あの子は今どうしているか? と、遠くから見守る以外に方法はない。倉本先生は結婚して杉本先生と名前が変わり、教頭から校長へと出世をされた。
担任からは外れてしまうが、それでも子供たち一人ひとりが可愛くて、誕生日が来ると、名刺の裏に、お誕生日おめでとう、これ
からも頑張ろう、などの一言セージを欠かさずに贈られたそうだ。教師は定年退職しても、子供らのことを案じている。
 杉本先生の奥さんも教師で担任を定年まで受け持たれ、多くの子供と密接な関係を保たれた。女性の教師は校長になる人は少なく、
それだけ、多くの子供と深い関係を持ちつづけることが出来る。これは幸せなことだ。誰しも立身出世を夢みるものだが、校長になる
ことよりも、子供と深く関わることに喜びを見いだす先生は多い。そのこと自体が、教師を希望した源でもあるのだ。
 杉本先生夫妻は今でも夜中に飛び起きて、今、○○君の夢をみた。どうしているのだろうかと案じたりもする。教室の何番目の席に座り、活き活きとした眼を輝かせる少年、少女の姿が今でも、ありありと瞼に浮かぶそうだ。
 有難いものじゃないか。こうまでして、生徒のことを考えてくださる教師がいたのだ。教師は多くの生徒に接し、それが巣立てば、後は次の子供らのことで頭が一杯になり、古いことはカラリと忘れるものだとばかり思い込んでいた筆者は眼から鱗の落ちる思いだ。
 こんな優しい、気配りを忘れぬ杉本先生の本質を紫峰師匠は見抜いていたのだろう。教師は生徒を見つめるばかりではなく、生徒からも見られているのだ。

by jpn-kd | 2010-06-22 04:38
日舞泉紫峰師匠8
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 どの家も中流で、同じような暮らしをしているからだ。だが、この姉妹のような境遇に陥らないとは限らない。社会保障が整備され、国がやる、県や市が面倒を確かにみるのかも知れぬが、日々の生活の補助や援助はしないものだ。そんな気配り、声がけは地域の人し
か出来ないのだ。それを、夏は窓を開け放たなければならなかった昔の寺横丁の人々は実践した。
 父母が交通事故や事件で亡くなった子どもは今でもいる。だが、そうした子を遠巻きにして眺めていないか。支えというのは、日々の暮らしに役立つことを言う。現在の我々は寺横丁の人々の人情を成し得るのだろうか。大いに疑問とする所だ。
 この姉妹を受け持った先生はどのような眼でこの子たちを見ていたのだろう。教師という仕事は小学生、中学生という限られた期間の子供たちをずっと見つづける。その年代の子どもたちしか見ないという極めて珍しい職業なのだ。
 教師は薄給で、どれほど、してやりたい、支えになってやりたいと念願しても、それを叶えることは至難だ。育英資金などの手段方法もあるが、困窮した子供が直ぐにそれを手にすることは難い。そのため、役に立てない自分自身をひどく責める教師もいる。それが社会の仕組みであることは判っていても、何かをしてやりたいとの気持ちと現実は乖離している。この紫峰師匠の教師は倉本喜代七先生で、田名部から吹上小学校に赴任してきた。初めて担任したのが紫峰さんのクラスだった。先生にお目に掛かって、当時のことを思い出していただいた。
 五年生の時だった。クラスの女の子が阿部さんのお母さんが亡くなったと告げた。先生は取る物も取り合えず、寺横丁の紫峰さんの家に向かったそうだ。そして、二階の部屋に入ると布団に寝かされた母親の両側に姉と妹がつくねんと座っていた。妹は窓際に、姉は母親の枕元に。
 倉本先生は顔を覆っていた白布をそっとめくって見ると、痩せこけた顔が目に入った。結核は当時は不治の病だった。栄養も足らなかったのだろう。辛かったろう、二人の子供を残して旅立つのは心残りだったろうと思うと、熱いものがこみ上げてきて、白布を持った手がふるえた。
 そんな先生の姿を見て、紫峰さんは「先生、私は踊りの師匠になるの」とポツリ洩らしたそうだ。この言葉は前にも聞いたことがあった。

by jpn-kd | 2010-06-21 07:13
日舞泉紫峰師匠7
 前号では両親が亡くなり、二人の姉妹を親戚縁者が集まり、孤児院にでも人れるかなどの悲惨な状況を説明し、それに対して中学二年生の姉が私たち姉妹は、ここで暮らしていきます。離れ離れにはなりませんと宣言。そして、二人は寺横丁で生活していった所まで伝えた。
 身寄り、頼りのない孤児は二人で犬っころが身体を寄せ合うようにして寒さをしのぎ、暑さをはね除けて生きていく。人間ってのは死ねば楽になる。生きているうちは始終苦労の尾根、困難の谷に遭遇する。そして、それをどのようにかいくぐったかが問われるのだ。
時には頬に涙し、時には満面に笑みを浮かべながら。それが人生なのだ。その山と谷が高く、そして、深いがゆえに後年はそれを耐え忍んだことを、楽しい思い出として人生の記憶のアルバムに貼ることができる。
 こんな境遇の子供たちを寺横丁の人々はあたたかく支えた。もし、我が子が同じような境涯になった時、きっと誰かが支えてくれる筈。
そして、その支えを今私たちが、この姉妹にしてやらねば、人間として恥ずかしいと思ったのだ。これが尊い。我が身忘れて他人のために尽くす行為程気高いものがこの世にあるだろうか。
 誉められたくてするんじゃない。人間として、出来ることからすると、日々の食事の世話や洗濯物まで気軽に声をかけてくれた。隣にあった交番の巡査も親切だった。柏木旅館のおかみさんも優しかった。接待洋品店の主人は、中学二年生の長女にアルバイトをさせてくれた。長女も施しを受けることに甘んぜず、自分の身体をこき使い、額に汗して生活の糧を得ようと努力した。
 現在は長命の時代、暮らしは一億国民が中流と叫ばれるように、世の中は暮らしよくなった。薪も炭も必要なく、ガスやクーラーの
時代で快適に生活は出来るが、何か大事な物を落としてしまった気がする。冷暖房機器を快適に運転するために、窓や扉が閉じられて、隣の人の生活も気にならなくなった。

by jpn-kd | 2010-06-17 07:06
八戸映画王・中村文化興行・中村寿男2
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木材、製材、更に木工所も造った。寿男氏が亡くなっているため、少々事実と異なる箇所もあるやも知れぬ。読者でそれを指摘できる人があればご教授願う。
 製材所は第一工場を小中野沼向に持ち、第二工場は諏訪にあった。木工所は小中野下中北、木材の乾燥場が湊町本町、その場を映画館としたいと東京のカサイなる人が寿男氏から借り受けたのが昭和九年(一応九年としておくが詳しい年代をお知りの方はご一報)、定員は四百三十名。
カサイ氏が松竹と関係があった模様で、八戸松竹の看板を掲げた。ところが、この人物が応召され、東京に戻り、映画館を寿男氏に譲った。それで、映画経営に乗り出した。当時、寿男氏は八戸木工指し物工業小組合を昭和十五年に設立し、その理事長におさまっている。専務理事は白石三郎、監事は中村寅吉、つまり父君、同監事に島脇庄一郎が就任とある。
 人物的にも人から推される所があった模様だ。なかなかの太っ腹で、俗に言う親分肌。困った人がいれば助けずにはおられない人。この人に随分と面倒をみて貰ったと感謝する人が多い。中村一族は伝統的にそれを持っていた、今月号に泉紫峰師匠の連載が開始になったが、この人も中村一族に大変世話になった人。中村医院の奥さんが親身になってくれなければ、今日の紫峰師匠はなかった。紫峰師匠は寿男氏の経営する金中工業所に四年勤務していた。詳しくは今月号の泉紫峰師匠のページを参照されたい。
 テアトルに当時上映した映画の記録簿がないかと尋ねたが、何にもな~いとの事。当時の映画などを解説しながら、読者諸兄と共に、往時を振り返ってみたいと念願していただけに残念。残っている方法は、当時の新聞を丹念に探り、何を上映していたかを探す、大変に面倒な作業が残る。これしか方法はなさそうだ。
 戦後、映画は大人気、映画館は大繁盛となるが、その大きなうねりを寿男氏は巧みに掴み、映画王となり、幾つもの映画館を経営するが、それは次号のお楽しみとしたい。何しろ、当時の映画を伝えられれば、昔のことを昨日のように思い出せるもの。
その一里塚のような映画の題名を挙げなければ、話にも何にもならない。図書館で勉強し、資料を探し、八戸の映画王の続きは次回のお楽しみとしたい。
         続く
by jpn-kd | 2010-06-13 17:07
八戸映画王・中村文化興行・中村寿男1
人間には運、不運がつきもので、その波間に翻弄されるのが人生。そして、その最高潮の時に死ねる人間は少なく、大体、衰運の中で悲嘆にくれ、涙ながらに死ぬ者が多い。何処が自分の人生の最大運であったかは、なかなか判らぬために、ただひたすら生きていたい欲望にかられるが、どれ程生きても、今より次第に悪くなると知れば、さっさと死にたいとも思うものだが、運が悪くなるとは誰しも信じたくない。信じたくないと言う心持ち、つまり我欲を捨てないと見える物も見えなくなり、時間を空費し、悪しき結末の中で悲嘆と呪いの言葉を残して死ぬものだ。
アメリカ映画のようなハッピーエンドではなく、フランス映画のような冷めた物の見方が実人生なのだ。
 映画というのは人生に対しても物の見方、考え方を教えてくれる教師でもある有難い存在だが、昨今は映画館に足を運ぶ人も少なくなった。
セントラル映画館の社長はオリオン駐車場の社長でもある中村文彰氏だが、この人の決断の良さは、筆者はかねがね尊敬している。車社会になり、中心商店街は有料駐車場だらけ。町の駐車料金の高さが町から客を離れさせたとも言われる。それだけが原因ではなかろうが違因には間違いない。それなら駐車料金を下げたらどうだと、中村文彰社長は一時間九十円を打ち出した。これは前に『八戸今昔』でも紹介したが、二十分なら三十円だ。こんな安い料金は日本中でもここだけだろう。利用者は増加したが、収入はダウン。狙いは間違いなく正しかったのだ。
 前の市長が公約した市役所の駐車場は二十年経ったら無料にするを、現市長は反故にした。二十年前に筆者は、これは革命だ。きっと馬場町辺りから栄えるだろうと踏んでいたが、何、あれは嘘で、やめたとは理不尽。結局、馬場町は旧態依然としている。一寸したきっかけが大きな効果を生むのだが、なんたるこっちや。
 為政者が墟を言うようでは世も未だ。町の繁栄を何だと思っているのだろう。
 今回はその大決断家の中村文彰氏の話ではなく、父君の中村寿男氏の話だ。
 運の強い人の典型がこの寿男氏。明治三十五年八戸は小中野生まれ。父は古里寅吉氏、岩手県九戸の産。中村きちと結婚し中村姓となる。寅吉は九戸から木炭を運び、その販売を手がけた。多くの小中野の人たちと同様に、当時の暖房必需品の炭を東京方面に移出していたのだろう。今はないが小中野湊駅近辺には多くの木炭販売業者がひしめいていた。
 寅吉は九人の子宝に恵まれ、寿男氏はその長男。寿男氏は昔は長一と名乗り、後これを改め寿男となった。その年代は不明だが、昭和十六年発行の八戸市総覧には長一の名があり、少なくとも、この年までは寿男は名乗っていない。
昭和二十六年の八戸商工名鑑には寿男の名で掲載されているので、大雑把に言えば戦後、改名したのだろう。
 寿男氏は八戸中学(現八戸高校)を卒業後、家業の木炭商を手伝うが、この人は才覚があった。

by jpn-kd | 2010-06-12 07:22
日舞泉紫峰師匠6
踊りを習って下さった明治生まれの女性たちに深甚なる感謝を申し上げたい。貴女方の貴い心が今の立派な紫峰師匠を作りましたヨ。貴女方の支援があればこそ、八戸で一番と呼ばれる日舞の師匠が誕生しましたヨ、と声を大にして伝えたい。この、人を伸ばし育てる心構えを我々現代を生きる者も継いでいきたいものだ。これこそが、金を扱う動物である人間にだけ許されたことなのだ。
 幼い姉妹を残して死んだ父母は、この娘たちが間違った世界に行かず、堂々たる人生を歩んで欲しい、何事にも屈せず、思いのたけを人生にぶつけて欲しいと念願したことだろう。姉に母親がこう言った。どんなことがあっても、必ず道は開ける、だから、辛くとも明日を信じて歯を食いしばって頑張るんだヨと、そして更に、こう続けた。妹を先に嫁に出しなさい。あの娘は甘えん坊だから、一人で生きては行けない、だから、あんたより先に嫁に出しなさいと。そして、その言葉を姉は忠実に守った。紫峰師匠は金中木材工業の長畑経理部長が、もう少し踊りの生徒が増えるまで仕事を続けて、これなら大丈夫という所まで会社にいて様子を見なさいと忠告してくれたが、紫峰師匠はこれで大丈夫だと稽古場を設けた。それは家の前の柏木旅館に。
そして、その稽古場に多くの生徒さんが集まった。父母の運の悪さを、この妹の紫峰師匠が逆目の全て運の良さで引き受けることになる。ここが人生の妙、不可思議なるところで、長い目でみると、一時、半時の繁栄は夢、自身の生涯がどれ程、悪運、悲運にいとどられていても、この紫峰師匠のように、自分の子供がそれらの悪運の反対、幸運を何度も手にすることがある。
 運の悪いを数えるはよい、それは自身を励まし、更に精進するためのもといとなる、だが、運の悪さ、人が良くしてくれなかった事を数え、あの人のあれが駄目、この人のこれも駄目と他人のダメを押すようになると、それは衰運の始まり。他人を挙げつらうより、自身の至らなさを嘆くが先、どうしても、我が身を忘れて他人を責める。これをすると、本人の幸運も逃げる。それのなかったのが姉、こうした父母の先立ったことを、仕方がない、他人が出来ないような経験をさせて貰えるのも大事な事だと、まるで自分自身を他人視している。この姉ありて初めて師匠ありき。

by jpn-kd | 2010-06-10 07:04


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