水上勉 貧困について2 河出書房
最近ある新聞社が世論調査を試みたところ、都会の二DKに住むサーラリーマンの大半は、「中流家庭にある」と自慢したそうだ。自らを貧乏線上から、中流にひきあげているところに悲劇があると新聞は報じた。昔の五条橋下の番地のない人びとが吸った清澄な空気さえ得ていない上に、子供をあそばせる一坪の土地すらもっていない中流家庭がどこにあろう。高度成長の国は、つまり、このような錯覚を庶民に抱かせることによって大企業のマンモス成長をゆるしたとみてよいのである。したがって、河上流にいえば、娘に千金の帯の買える富者は、今日もひとにぎりの人数であって、また、その反対に、ひとにぎりの線下をみれば極貧者はいるのである。それらは、過疎地帯にとりのこされた老人夫婦、核家族の断絶で、養老院にゆくことすらならず、アパートに生活補助をうける老夫婦などの姿に見られ、奈落には、水俣に代表される公害病患者の家庭がある。
つまり、新しい貧乏線下の貧者とは大企業の発展の恵みに浴さずに成長の犠牲になった者をいう。しかもこれらの家庭が十八年間も大衆の支持する政党に見はなされているのである。見はなされているという事実を考える必要がある。ここで、河上がいう、「人心の改造なくして、貧乏の根絶はありえない」。これさえ出来れば、粗織の改造はしなくても自然と貧乏はなくなると、いい進んだ河上の境涯が、今日を見ていてもはっきりと私にわかる。そして、そのことが四十年前の第二の課題であったにかかわらず、人文日に進んで、豊かな国となったはずの今日の国情に、新しくひびくのは、人心の改造という仕事が、如何に至難の業であったかを訴えているように思えてならぬ。つまり河上は、ここで、四十年のちの時代を透視しており、精神の貧困到来を示唆していたと思う。 私も、じつは、寺院生活から脱走して、さんざん苦労もしたけれど、いまは、どうやら、この国の経済成長に沿うて、発展もしたマスコミの恵みをあび、中学卒の学力しかないながら、得手とする小説書きなる技術がようやく芽をふき、行商人生活をきりあげ、東京に住居をかまえ、さらに、信州の地に勉強部屋などもつという結構な富裕者になったことをここで告白しなければならない。そうして、妻とのあいだに、一人の障害児を育てているけれども、さして生活に困るということはなく、時には、生活必要品以上の贅沢品をも買い求めようとする妻と口論し、いさかいもくりかえしながら暮している。いってみれば、九歳までは、食うものも食えず、便所の落し紙さえなくて、藁をつかっていた身が、夢のような小説家になれ、雲上の生活にせりあがっているといわねばならない。 私の人生にとって、いま貧困とは、何であったかと、思いかえしてみると、物的にめぐまれなかった生活は、生誕から九歳までの郷里での期間と、戦後早々の焼土での飢餓生活、約五年ぐらいであろうか。種々職業もかえて住居を転々としたが、いずれも、線上すれすれであった。このうち、戦後早々の五年は、国民の誰もが味わった苦労だから特別いうところはないにしても、九歳までの貧困のみじめだったことは、私にとっては運命的だったと思う。そうして、京都の寺院で、約十九歳まで修行した期間は、宗教生活であるから、精神的にも、物的にも貧困でありはしたが、これは、柳田国男のいう主家の教育によったのだし、私なりに充実していたかと思う。してみると、少年時に小僧をしたという特殊な事情でさえ、何のことはない、私にかぎったことではなくて、今日の私の年齢ならば、人それぞれ、貧苦の経験は、誰もがもちあわせてきているのではないかと思う。 そこで、他の人はどうかしらぬが、私にかつての貧困があたえた、心の糧のようなものをさがそうとすると、それは多少ある。いま、多額な納税もする身になって、思いあらためてみるに、貧なる日々にあったところの私と、隣人とのつながりといったものが、いまは富むことによって皆無となった淋しさを感じている。洋服行商人時代に私は松戸に住んだことがあった。その頃は、収入は少なく、妻と子が辛うじて喰えるぐらいの線上貧乏人だった。住居は長屋で、隣人も多くいた。ある日、この長屋で、私の家にだけテレビが入った。隣人たちが夕方になるとやってきた。貧乏ながら、湯呑みの数もふえた。また、私は銭湯が遠かったので、風呂をいち早くつくった。すると、人びとはしまい風呂に入れてくれ、といってきた。ことわらずに入れた。すると、私の家は夕方から時には深夜まで、人のいない時はなく、茶のわかない時間はなく、ある一面ではわずらわしく思った日もあったけれど、総じて毎日はなかなかに、人との和気があふれ、人間的連帯があった。 ところが、この家を越して、東京にきてからは、松戸の一角へは御無沙汰した。数年後に肪ねてみると、どの家にもテレビが入り、風呂が設けられていた。そのためか、道をあるいても、昔は戸をあけて、外をゆく人に声かけていた風景はなく、どの家も大戸をしめ、自分自分の家でテレビにかじりついている。つまり松戸の郊外の農村も、生活必要品の文化製品取得によって個人主義者がふえたのである。このことは生家のある部落にもいえて、さいきんは、盆や正月に帰っても、昔の仏教的な行事はお目にかかれない。八月十六日の迎火を焚く家も少ない。念仏の鉦もところどころでしか聞こえぬ。広場に提灯をつるして踊った「盆踊り」も十年前に廃止された。若者がいなくなったせいもあるが、老人夫婦と、子供たちが、みな大戸をしめて、家じゆうで、テレビにしがみっく団槃を楽しみはじめたからである。縁台将棋や、ウチワ片手の道ばたでの談合風景などほとんど見なくなった。貧乏線上の人びとは、片山内閣の置土産である農地解放のおかげで、小作田を自分の所有に出来て、昔から思えば中流に入ったのかもしれない。中流に入ると、 みな大戸をしめて、家の中でテレビを楽しむ文化生活者になった。このような人間関係の味けなさは、じつは、他人への無関心を醸成し、隣人が病気で死んでいても知らずにすごす家庭の出現をみたのである。物が豊かになったために、心を失ったといわれるケースは、このような共同体のくずれの中で、都会でも、農村でも人間が孤立してゆく姿としてながめられる。 生活保護者が孤独死した。八戸大杉平での話だ。二ヶ月も誰も知らなかったという。一億国民中流意識の中でも、置き去りにされた人々は厳然としている。上ばかり見ていると、足元が見えない。政党がしなければならなかった、貧困絶滅、古くて新しい問題なのだ。
by jpn-kd
| 2009-07-21 07:39
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